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試し読み
ふと目を開けたとき、目尻から涙がこぼれ落ちる。一瞬だけぼやけた視界が、すぐに晴れた。夢と現実の間をさまよったままの意識で、見慣れない天井を見つめる。
「…………ここ、どこ?」
ぼんやりした頭でつぶやいた疑問に、答える声はない。しばらくぼうっと天井を見つめていた間に、頭がはっきりしてきた。バイト終わりに熱が出ていたこと、倒れる前に誰かに身体を支えてもらったこと、──そして疑問は最初に戻る。ここはどこ。
覚醒した思考でみるみる血の気が引いていく。ひまりは、まず自分の状況を把握するために飛び起きた。
寝室らしい部屋の中を見渡しても、こんな部屋は知らない。そもそも部屋の中央にベッドを置くということが理解できなかった。目の前には見たこともない薄さの大型液晶テレビが、まるで拝んでもいい、と言わんばかりに高そうなテレビ台に鎮座している。
おしゃれなインテリアもそこかしこに置いてあるのだが、こんなにたくさんあって掃除は大変じゃないのだろうか、と心配するほどだ。重厚でいてセンスを感じさせる家具をひと通り見渡してから、左側にある大きな窓の外を見る。
窓の外は暗く、夜であることは間違いないのだが、時間がわからなかった。ひまりの持っていたひと世代前の携帯電話も見当たらない。どうにかして、ここの家主に助けてもらったお礼をして、アルバイトへ行かなければ。少しずつ、自分のやらなければいけないことがわかってきたひまりは、ふと窓に映る自分へ視線を移した。
「え」
間抜けな声が出る。
起き抜けのせいで肩まである栗毛はぼさぼさ、涙で落ちたマスカラは目の周りに転々とつき、リップが乾いた唇はかさかさだ。ここまではいい。マスカラ以外はだいたいいつもどおりだ。ただ、ひとつを除いては。
「なんで!?」
思わず声を張り上げたひまりは、手元にある布団を思いきりたぐり寄せる。
──どうして服を着てないの……!?
人さまの家で下着姿で寝ているなど、言語道断だ。何がどうしてこうなったのかさっぱりわからない。混乱を極めていく頭の中で、どうにか着地点を探そうとまずは落ち着くことを選択する。
「落ち着いて、落ち着くのよ。大丈夫。きっと大丈夫だから」
何が大丈夫なのかまったくわからないぐらいに、落ち着けていない。そんなことは百も承知だ。それでも深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとする。すると、ドアノブの動く音が耳に届く。咄嗟に肌を見られないようにして、布団を上まで上げると身体を強張らせてドアを見た。
「お気づきになられましたか」
入ってきたのは、ひとりの男だった。彼は怯えるひまりを見て、にこりともせず中に入ってくる。その手にはトレイに載ったマグカップがあった。ベッドのそばまでやってきた彼はそっとトレイをサイドテーブルに置いて、片膝をベッドにかけた。何をするのかと様子を窺うひまりに、顔を近づけてくる。突然のことに、頭の中は真っ白だ。
「え、ちょ、あ、へ!? あの、あの!!」
「失礼します」
動揺を露わにするひまりなどお構いなしに、手を伸ばしてくる。思わず目をつむった直後、ひんやりとした彼の手がひまりの前髪を上げた。こつり。何かがぶつかり、恐る恐る目を開ける。吐息が触れる距離にいる彼は、まぶたを閉じたままだった。
「一応、熱は下がったようですね」
長いまつげ、すっと通った鼻筋、男性なのにきめ細やかな肌、そして──澄んだ瞳。
「……ッ!?」
目があった、と思ったときには身体が後ろへ逃げていた。いくら大きなベッドとはいえ、彼が寝室に入ってきたときから無意識のうちに身体が退いていたのか、端まできていたようだ。のけぞるように後ろに手を着こうとしたのだが、あるはずの感触がない。
「ふゃあ……!」
落ちる。そう覚悟した瞬間、力強い腕が腰に回り、勢いよく引き寄せられた。抱きしめられた腕の中で心臓がどきどきとうるさい。それはすんでのところで危ないところを助けてもらったせいか、それとも彼の腕の中が優しいせいか。
「大丈夫ですか?」
落ちた低い声に心臓が脈打ち、それを追いかけるようにして小さく頷いた。小さく息を吐いた彼が離れていくのを感じて、ひまりは逆にしがみつく。
「……どうかなさいました?」
「わ、わた、私、その、服を……」
彼が離れてしまうと、自分の恥ずかしい下着姿が見られてしまう。それが嫌で離れないでいてほしかった。その意図を彼は汲んでくれたのだが──、
「ああ。大丈夫ですよ。さっき存分に見ましたから」
しれっと返事をした男の言葉に、身体が凍りつく。
「汗をかいていらっしゃったので、私が脱がせました」
さらなる爆弾発言に、ひまりは自分から彼を突っぱねた。そして素早くクッションを抱きしめる。言いたいことがあるのに言葉が喉に張り付いて出ない。相手はやはり表情を変えることなくベッドから降りた。
「かぼちゃ、お嫌いですか?」
話が見えない。呆然とまばたきを繰り返すひまりを気にすることなく、彼は続ける。
「着替えと一緒にポタージュを持ってまいりましたが、食欲があるようであれば軽く食事を摂って薬を飲みましょう」
「……」
「今は解熱剤で一時的に熱を下げているだけですから、今夜は安静に願います」
「……あの」
「ああ、毒なんて入ってないのでご安心を」
「そんなこと思ってません。そうじゃなくて……」
「では、食べさせてほしいのですか?」
「違います!!」
全力で否定するひまりを、彼は表情を変えずに見続ける。まったくもって、考えていることが読めない。それでも目の前にいる男に最初の疑問を投げかけた。
「あなた、誰なんですか……!!」
今にも泣きそうになるひまりの叫びに、男は居住まいを正して向き直る。
「ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。このたび、お嬢さまのおじいさまであらせられる小鳥遊孝蔵氏の命により、ひまりお嬢さまの執事となりました」
どうしよう。何を言っているのか、まったくわからない。
「黒崎慧士、と申します」
自己紹介でもにこりともしない彼を前に、ひまりは言葉を失った。事態を把握するどころか、頭の中が真っ白に染まっていく。そんなひまりなどお構いなしに、彼は続けた。
「そして今日からここが、ひまりさまのお住まいとなります」
奇しくも、夢の中で聞いた彼の言葉どおりの現実がひまりを待っていた。
『次に目を覚ましたとき、君の願いはちゃんと叶ってる。だから安心しろ』
こうして、ひまりの“日常”はいとも簡単に壊れたのだった。 -
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