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試し読み
「あの、レナード様……? どこへ向かわれているのでしょうか」
アイリスはどきどきと胸を高鳴らせながらレナードに尋ねた。
「足が痛むのだろう? 手当てするため、俺の寝室へ向かっている」
――寝室!?
アイリスは驚きのあまり声が出せない。
(そんな――いくら何でも、寝室になんて行けないわ)
国王陛下の寝室になど、畏れ多くて立ち入れない。
「あの、私……重いでしょう? 歩けますから」
暗に「下ろしてくれ」と言うと、レナードは無言で首を横に振った。
「この腕に抱いているのかわからなくなるほどきみは軽いから、平気だ」
レナードはその存在を確かめるように、さらにきつくアイリスを抱き込む。絶対に放さない、と言わんばかりだった。
心臓は少しも休まることなくドクドクと脈を刻む。
心なしかレナードはいつもより口数が少ない。アイリスのほうを見ようとはせず、前を向いたままズンズンと歩く。
(どうなさったのかしら……)
人を抱えて歩いているのだ。集中していなければ前へ進めないのだろうか。
(……ううん。それは、違う気がする)
彼は、なにかに怒っているのではないか。
そう思うと、とたんにレナードが浮かない顔をしているように見えてくる。
アイリスの、機嫌を伺うような視線に気がついたのか、レナードはほんの一瞬だけ唇を引き結んだあとで話し出す。
「さっき……踊る前に、きみが話をしていた男はだれだ? 手首を、掴まれていたな。痛かっただろう?」
普段よりも抑揚のない、平坦な声音だった。憤りを必死に押し殺しているようにも思える。
「あ――……彼は、私の従弟です。手は、何ともありません」
「本当に?」
弓なりの美しい眉が顰められる。
「込み入った話をしていたようだが」
「そのようなことは……。大した話ではありませんでした」
微笑んでみせても、レナードは不満そうだった。
(……疑っていらっしゃるようだわ)
シリルに掴まれた手首は赤くなっていて、いまだに少し痛む。
レナードは『大した話ではない』わけがないと考えているのだろう。
しばらく二人は無言だった。
レナードが進むにつれ、城の内観が変化していく。
どこも絢爛なのには変わりないが、廊下には歴代の王族の絵画が並べられ、カーペットや天井には金色を基調に赤や橙など温かみのある色合いが多く使われている。
それは、城に住まう王族の私的な空間――居室に近づいているということ。
王の寝室への入り口は二枚の大扉だった。長身のレナードがそこを潜ってもなお間口には余裕がある。
寝室内は大扉に見合う広さだった。端から端までどれだけあるだろう。両手で数えられるほどの距離を歩けば端まで着く屋根裏部屋とは雲泥の差だ。
壁には金色の唐草模様が隙間なく描かれ、その間に鏡や絵画が造り付けられている。ダンスホールのものより小さいが天井からシャンデリアが吊り下がっていた。アイリスとレナードを迎えるように明かりが灯っている。
アイリスは天蓋付きの大きなベッドに下ろされたものの、すぐに立ち上がった。
「どうした? 座っていていい」
壁際のガラス棚へ向かって歩きながらレナードが言った。
「いえ、そういうわけには……。国王陛下のベッドですから」
「国王陛下、じゃないだろう。レナードだ」
棚の前まで来ると、レナードは引き出しを開けてなにかを探し始めた。
アイリスは肩を竦めて言い直す。
「レナード様のベッドに、座るなんて……おこがましくてできません」
「俺としては、一晩じゅうそこにいてもらっても構わない」
――一晩じゅう!?
彼は棚のほうを向いていて表情が見えないので、冗談なのか本気なのかわからない。
レナードが戻ってくる。その手には白い薄布が握られていた。包帯だ。
「座ってくれ、アイリス」
「では――ソファに座らせていただいてもよろしいですか?」
「だめだ、一歩も歩くな。命令だ」
「……!」
命令だと言われれば、アイリスはどうすることもできない。彼が、そういう高圧的な物言いをするのは珍しいものだから、よけいに逆らえない。それに、命令といっても彼の心遣いが転じたものだ。
アイリスは恐縮しながら頷いて、「失礼します」と言ってベッド端に浅く腰掛けた。するとレナードは赤い絨毯の上に片膝をついてしゃがみ込んだ。ギョッとするアイリスの靴を脱がせにかかる。
「レナード様!? あのっ――」
「いや……一晩と言わず、いつまででもいてもらいたいくらいだ」
アイリスの言葉を遮るようにしてレナードは真剣な声音で言った。
気が動転していて、何のことなのかすぐにはわからなかった。レナードが足先の具合を確かめるのを見下ろしながら必死に考えてようやく、『ベッドの上にいつまででもいてもらいたい』ということだと理解してアイリスは赤面する。
「赤くなっているな……」
顔のことではない。レナードはいま足先しか見ていない。眉根を寄せて足の甲を撫でたあとで、擦れて赤くなっている部分に包帯を巻き始める。
「あ……その、レナード様にそのようなことをしていただくわけには」
「幼少期には鍛錬で負った自分の怪我もこうして手当してきたから、包帯を巻くのは得意だ。心配いらない」
「そ、そういうことではなくて」
話題を変えたかったのか、レナードは険しい顔で上を向く。
「なぜ、こんなふうになるまで無理をした?」
――その理由≪わけ≫は一つしかない。
それを言うのはためらわれた。
だって、心の内に秘めた強い想いを晒すことになるから。
(でも、伝えたい)
その気持ちだけは、ごまかしたくなかった。
「レナード様と……どうしても、踊りたかったのです」
そう言ったあとで、アイリスは慌てて「でも、無理はしていません。それほど痛くはありませんし」と言い足した。そうでなければ、彼が「自分のせいで無理をさせた」と気を揉むかもしれないと思った。
「……っ、痛くないわけ、ないだろう……!」
アイリスの足に包帯を巻き終わったレナードは複雑な表情になって身を屈める。
足先にキスを落とし、眉間に皺を寄せたまま微笑む。
「よく頑張ったな、アイリス。今夜は……きみと踊ることができて本当によかった。至高のひとときだった」
その笑みを見れば多少の痛みなど吹き飛ぶ。
アイリスは瞳を潤ませて顔をほころばせる。
レナードはしばらくアイリスの顔を見上げていた。しだいに笑みが消えて、真剣さを帯びる。
「……?」
彼がなにを考えているのかわからなくて首を傾げると、左のふくらはぎを両手ですうっと撫で上げられた。
「ひゃっ……!?」
そこは怪我していない。それなのになぜ、撫でまわされるのだろう。
(揉み解してくださろうとしている……?)
アイリスが縮み上がっても、レナードは手を退けようとしない。
(ううん、それは……違う、ような……)
探るような視線を向けられている。彼の両手はどんどん這い上がってくる。
『そういうお声は陛下とのベッドの中だけにしてくださいな』
急にエマの言葉が思い出された。
まさにいま、そういう場面に差し掛かろうとしているのではないかと危惧する。
(こんなことならやっぱり、エマに教えてもらうのだった……!)
――そうしたら、なにが『変』でなにが『普通』なのかわかるのに。
「……俺に触れられるのは嫌か?」
不意に尋ねられたアイリスはありのままを即答する。
「嫌だと思ったことは一度もありません」
レナードの両手がピタリと動きを止める。
彼は跪いたまま、いつになく改まって「アイリス」と呼びかけてくる。
「きみに婚姻を申し入れる」
いったいなにを申し入れられたのか、一度聞いただけで理解できたのに問い返したくなった。
――婚姻。
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。
歓喜と躊躇≪ちゅうちょ≫が同時に湧き起こり、アイリスの思考を鈍らせる。
(だって、私は――)
ダンスホールではシリルに「身の程をわきまえろ」と言われたばかりだ。
自分のことはこの際、どう言われようとも構わない。
(でも、もしも私がレナード様の妻に――王妃になったら)
レナードの外聞まで悪くなるかもしれない。それだけは耐えられない。
「挙式は、まだ先になるとは思うが……婚姻の約束だけは先に交わしておきたい」
アイリスがなにも答えないからか、レナードは暗にまくし立てる。
「きみが俺のものになるという確約を得たい」
膝の上に置いていた両手を取られる。熱く、大きな手のひらに包み込まれる。
「きみを、ほかのだれにも渡したくない。愛しているんだ、アイリス」
「――!」
目頭が熱くなり、少しでも動けばそこから水粒が零れ落ちてしまいそうだった。
嬉しくて、でも分不相応なのがわかっているだけに不安で、泣きたくなる。
なおも答えを示さないアイリスに痺れを切らしたレナードは続けて問う。
「なにか、思うところがあるのか? もしや、ほかに好きな男が――」
「レナード様のほかにそのような人はおりません!」
きっぱりと否定してしまったあとで、アイリスは「あっ」と声を上げて失言を悔いる。
「いえ、その……」
これでは『あなたが好き』と言っているようなものではないか。
顔を覆い隠したかったが、両手はいまだにしっかりと彼の手のひらに覆われたままだ。
レナードの頬に赤みが差し、笑みが戻る。
嬉しそうに「そうか」と相槌を打って、アイリスの手に指を絡ませた。そうして彼はしばらく指同士を絡ませて手遊びしていた。
「俺が触れて……嫌だと思ったことは一度もない、と言ったな」
アイリスはか細い声で「はい」と返事をする。
「その言葉に甘えても?」
レナードがなにを言いたいのか、このときはわかっていなかった。
頷くと、指先にちゅっとくちづけられる。それからすぐに、彼の両手がドレスの中へと潜り込んだ。
「……っ、あ……!」
ドロワーズをもめくり上げる勢いで太ももを撫で上げらる。
「どこに触れても不快ではない、と……言い切れないだろう? 不用意な発言をしてはいけない、アイリス」
彼が視線で伺ってくる。「もっと触れてもよいか」と。
無骨な指先がドロワーズの生地越しに脚の付け根を弄≪まさぐ≫る。脚を閉じていられなくなったものの、激しく抗いはしない。
(……不用意な発言なんかじゃ、ない)
どこに触れられても不快だとは思わないから、先ほどの発言は撤回しない。
アイリスが嫌がらないのを見て、レナードは口を開く。
「きみは以前、バルコニーに設えた庭のことを……俺の秘密の庭と言ったな」
「んっ……」
そんな曖昧な返事しかできなかったのは、秘所を指でぐるぐると押されているせい。
「きみのここも、そうだ。俺だけが可愛がることのできる、秘められた園」
レナードのもう片方の手が腰元を掴み、アイリスをその場に固定する。
「何人≪なんぴと≫たりとも手出しはさせない」
見上げてくる翡翠の瞳は力強く、得体の知れないなにかが滾っているような錯覚に囚われた。
その次の瞬間、視界が大きく揺らぐ。
天蓋が見えたかと思えば、すぐにレナードによって塞がれた。
「このベッドで、休んでもらうつもりだったんだが――」
レナードはアイリスをベッドの上に組み敷き、彼女の顔の両側に手をつく。
「いつかの礼をいま、貰っても?」
垂れ落ちてきた黒髪が肌に触れる。
息を詰めて首を縦に振れば、エメラルドが優しさをたたえて細くなった。
唇が一瞬だけ重なる。
すぐに離れて、こちらのようすを伺うようにふたたびエメラルドが見≪まみ≫える。
アイリスは惚けていた。
初めて交わす、唇同士のキス。
それを、愛しい人と重ねることができた悦びで頭の中が真っ白になる。
アイリスが顔を背けないからか、レナードはふたたび唇を寄せる。
「ん……」
ちゅ、ちゅっと小さな音を立てて、柔らかなそれが何度もやってくる。
彼と唇同士を合わせているのだという実感がいまになって――何度も啄まれることでようやく――湧いてきた。
(キス、してるのだわ……レナード様と)
以前、頬や首筋にくちづけられたときも、もしかしたら唇にされるのを望んでいたのかもしれない。
(唇に唇で触れられて気持ちいい、と思ってしまうのは……はしたないこと?)
いまになって、閨事の勉強を真面目にしておけばよかったと悔いても後の祭りだ。
レナードはアイリスにキスの雨を降らしながら彼女の結い上げられた髪の毛を乱す。花飾りが抜けると、編み込まれていた銀の髪はウェーブを描いてシーツの上に広がった。
続けてレナードはアイリスのドレスも乱し始める。彼女の背に腕をまわし、手探りで編み上げ紐の端を引っ張った。
心地よいくちづけに夢中になっていたせいで、アイリスはコルセットが緩むまでドレスの乱れに気がつかなかった。
「あっ」
シュミーズがずり下がる寸前、そこに手を当てて胸元が露になるのを防いだ。
「……だめ?」
眉間に皺を刻み、艶っぽく表情を崩してレナードは首を傾げる。そんなふうに――甘さを帯びた掠れ声で訊かれては「だめ」と言えなくなる。
「だめ、では……ないのですが」
言葉を濁し、視線を彷徨わせるとレナードはごく間近で「ないのですが?」とアイリスの言葉を真似て続きを促した。
「み、見ないでください。恥ずかしい、ので……」
すると彼は怪訝な顔になって小首を傾げる。
「触れるのは、いいということか?」
「ん……」
曖昧に頷く。本当は触れられるのだって恥ずかしいけれど、「だめ」と言えない以上、妥協するしかない。
「触れられるのと見られるのではそんなに違うものか?」
「違います、とても」
レナードは「うーん」と唸って唇を引き結ぶ。
「ならば、見ない。……今夜は」
彼の言葉の最後のほうはあまりにも小さくて聞き取れなかったが、アイリスはレナードが「見ない」と言ってくれたことに安心した。 -
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