書籍紹介
黒の王子と身代わりプリンセス 〜戴冠式は蜜に濡れて〜
黒の王子と身代わりプリンセス 〜戴冠式は蜜に濡れて〜
ISBN:978-4-596-74301-5
ページ:250
発売日:2013年8月2日
定価:本体371円+税
  • あらすじ

    彼女を導く王子は優しいけれど強引で─!?

    「君はもう帰れない。いっそどこにも帰れない身体にしてあげようか」陰謀に陥れられ、継承権を剥奪された王太子ランドルフの代わりに、突然、エルリアの女王として即位することを迫られたドロシー。重責に怯える彼女に悲運の王子は、優しく甘く、けれど絶対の束縛を要求してくる。一方、王位を狙う者の魔の手はドロシーをも付け狙っていて──!?

  • キャラクター紹介
    • VB-1ヒーロー

      プリンス・ランドルフ
      エルリア国の元王太子。謀略により廃嫡の危機に。

    • VB-1ヒロイン

      ドロシー・へブデン
      後ろ盾のない子爵令嬢。エルリア王家の血を引く。

    • ハロルド公
      コールブルク公国の君主。エルリアの王位を狙う。

    • ゾフィー・ベッケンドルフ
      エルリアの女伯爵。ランドルフの元婚約者。

  • 試し読み

    「これって、閉じ込められた?」
    クローゼットに続く扉は他と比べれば質素だったが、それでも自然と閉まるほどに軽くはない。
    きっと誰かが部屋に入ったのだろう。見回りに来て、扉が開いていることに気付いてそれを閉めた。浴槽の周囲に脱ぎ散らかした衣服には気付いても、まさか次期女王が小間使いのようにこんなところに入り込むだなんて、思いつきもしなかったのだ。
    「ええ、と……」
    きっとこんな夜更けに大声を出しても気付いてもらえるまで時間がかかる。
    ドロシーはまず、手当たり次第の布を引っ張り自分の上に落とした。上等なドレスが交じっていませんようにと祈りながら。
    それから編んでいた髪を解いて、肩を覆う。それだけでずっと温かくなった。
    「うん、問題ないわ」
    暗闇の中で作った寝床に横になる。助けは明日呼べば良いだろう。
    それに月明かりの一筋も差し込まない方が、余計なことを考えないで済む。
    とても綺麗に微笑む美しい女性と、それを見つめるランドルフの真剣な横顔。脳裏に浮かぶそれを見たくなくてドロシーは目を閉じた。
    瞼を下ろしても、暗闇の濃さは変わらない。
    口づけを思い出してももう胸は高鳴らなかった。けれど、彼がくれた言葉は、悔しいけどやはり嬉しい。
    みんな死んでしまったから、ドロシーは誰かと長く共にいた記憶がない。
    (二十年、ずっと——)
    それが友達としてでも、本当にそう約束してくれるなら。
    何も見えない、その暗闇の中へ吐息混じりに呟く。
    「……まだ好きになっていなくて、よかった」

     

    扉が壊れたのかと思うくらいの大きな音に、慌てて飛び起きた。
    「なに……?」
    「ドロシー。君、かくれんぼでもしたかったのか」
    大きな溜息と共に降ってきた声をたどって顔を上げると、そこには朝一番に会うはずのない人物が立っていた。
    ランドルフがいる。
    ドロシーは驚いた勢いで声を上げようとしたが、どこか疲れたように見える彼の姿に一度口を閉じた。
    「……どうしたの?」
    目に痛いくらいの光だと思ったけど、慣れてしまえばそうでもない。
    小さな扉から差し込む光は室内を見通すにはまだ足りないようだ。そんな薄暗がりの中で、逆光を背負う彼の細かい表情はこちらからは窺えない。それでも常にない雰囲気に、ドロシーは恐る恐る声を掛ける。
    「おはようドロシー。君こそなぜこんな場所に?」
    「これは。確か昨日、閉じ込められて……」
    ぼんやりと霞がかった頭を必死に働かせた。
    昨日は彼が去ってから、なんとか一人で食事を終えてベッドに入った。でも眠れなくて夜風に当たろうとテラスに——
    「……っ!」
    昨夜の光景が脳裏に蘇る。
    遠目からだったがはっきりと見た。彼はあのときも、今と同じような表情を浮かべて、だけどドロシーではなくあの女性を見つめていた。
    針を深く刺したような痛み。胸のそれは錯覚なのに居たたまれなくて、ランドルフから目を逸らす。
    (どうしよう。変に意識してる……)
    動揺するドロシーをどう思ったのか、彼は大きく溜息をついた。
    そんな風にあからさまに負の感情を態度に出されるのは初めてだ。ドロシーは驚いて彼を見上げる。
    よく見れば彼の無表情にも近い顔に淡い感情が滲んでいるのがわかる。初めて見る、誰かを咎める非難の色。
    「テラスへの扉が開いていたんだ」
    「夜風に当たったの。それで身体が冷えたから——」
    「攫われたか、逃げたか」
    硬い声。
    ドロシーはその内容に驚いて目を瞠った。
    彼は歩み寄るでなく、だけど去る気配もなく立っている。そこにいつもの微笑みはない。
    視線だけがじっとドロシーに据えられていた。
    「皆が君を捜して王宮内は大騒ぎだよ」
    「……ごめんなさい」
    耳を澄ましても彼が言うような喧噪は聞こえてこない。
    けれどいつもなら朝は常に誰かしら部屋に出入りするのに、その気配もないから、彼の言葉はけっして大げさなものではないのだろう。
    両腕を組んで、入り口近くの棚に肩を預けるようにした彼は、また息を吐く。
    「僕は君が攫われた方に賭けて、もう一度確認しようとここに来た。人の気配がしたから誰かと思えば、……まさか本人が寝ているなんて思わなかったけど」
    「攫われるだなんて——」
    「あっておかしくないんだ。……けど、僕もね。もしかしたら君は自分で逃げたのか、とも考えた」
    「逃げたりなんかしないわ!」
    「そうかい? 君は従順だったから、そうやって油断させての行動だと判断した人間も多いようだよ。こちらに後ろ暗い気持ちがあるからこそだろうけど」
    軽口じみた言葉にドロシーは内心そっと胸をなで下ろした。
    その表情や雰囲気が緩んだ訳ではなかったのに。
    「逃げて当然だって自覚があるなら、そのまま逃がしてくれたって——」
    「逃がさないよ」
    その声音には溜息が絡まって弱々しいくらいだった。なのに、ドロシーの身体が震える。
    逸らされない視線から逃れたかったけれど、そうしてしまえば何かを刺激してしまいそうで、ドロシーはただ彼を見つめ返した。
    「朝から君を捜していたんだ。寝室から続く部屋には真っ先に人が入った。君はどうして最初の呼びかけに答えなかったんだい?」
    言葉はいつものように丁寧で言葉尻も優しい。伝わる雰囲気以外、何も変わらないように見えるから、気付くのが遅れてしまった。
    ランドルフは怒っている。
    けれどそれに気付いたところで、どうしたらいいのかドロシーにはわからなかった。
    「ドロシー?」
    「それはだって、眠っていて。朝になったらちゃんと助けは呼ぶつもりだったの。本当よ」
    ただこの空間は、隙間なく扉が閉じられていて朝の光は差し込まないし、分厚い壁と室内に所狭しと吊されたドレスが音を吸い取ってしまう。
    その上、衣服の山で作った寝床が思いの外快適だった。厚い絨毯越しに感じる固い床の感触も心地よく、柔らかすぎるベッドには慣れないドロシーは眠りの浅い日が続いたこともあって、彼が入ってくるまで目覚めなかった。
    (そういえばさっきの音って——)
    「ドロシー」
    突然の硬い声に、小さな疑問を拾い上げようとした意識が引き戻される。
    薄闇に慣れた目を彼に向けた。
    「一応訊いておくけど。君の声を聞いたのが女性じゃなかったらどうするつもりだった?」
    「……どういうこと?」
    やっと彼の面に表情が浮かんだ。ドロシーはそれに安堵したけれど、でも彼が浮かべたのは強い呆れの感情だった。
    「衛士の呼びかけにも、その格好で応じるつもりだったのか、という話だよ」
    目を細めたランドルフが、二歩三歩と近づいてくる。
    彼の視線の先を辿って、ほとんど隠れていない自分の胸を見下ろし、ドロシーは息を呑んだ。
    「もっと早く言ってくれたって!」
    「いつ気付くのかと気になって。他人から指摘されても身につかないって言うだろう?」
    (なによそれ!)
    ドロシーが自分の状況を失念していたのはランドルフのせいだ。
    (昨夜の二人の逢い引きが……っ)
    月明かりの下まるで一枚の絵画のような——
    思い出してしまった。そう唇を噛んだのも悔やんだのも一瞬だ。ドロシーは急いで身体の前に適当な布をかき集める。床の上にはシーツやタオルより衣服が多く散乱していた。今たぐり寄せたのも、淡い色をしたドレスのスカート部分だ。
    更に床に目を走らせると、ランドルフの後ろ、足下にワンピース型の下着を見つけた。いっそそれを身につけてしまえと、ドロシーは簡易コルセットの影にあるそれに手を伸ばす。
    その手を、膝を折ったランドルフに上から掴まれた。
    「え……?」
    「君は、自分の立場がわかってないだろう?」
    重い溜息と、強い呆れと非難の眼差し。
    それをこんな近くから向けられれば、ドロシーも我慢できず彼に噛みつく。
    「そんなことないわ。わかってなかったらあんなに悩まない」
    「そういうことじゃなくて」
    溜息をつきながら、彼は手を離さないままもう片方の手でドロシーの顎を持ち上げた。
    青い瞳はこの暗がりでは薄い灰色にしか見えない。
    そういえば彼の青を明るい陽の下で見たことがない。唐突にそう思い至って強く惜しい気持ちになる。
    ぼんやりと余所事を考えるドロシーに呆れたのだろう。ランドルフははっきり顔をしかめた。
    「自分を知らないのは、……君の場合は仕方ないと思うけどね。もっと自覚した方が良い」
    腕はまだ掴まれたままだ。
    顎のあたりをなぞっていた指先が、喉を通って鎖骨に下りる。なにをするのだろう、と本当にそれだけを思ってドロシーはランドルフの顔を覗き込む。
    ふ、と笑われた。
    嘲笑一歩手前のそれにひるんだドロシーに構わず、触れるか触れないかの距離で彼の指先が肌を撫でる。鎖骨に親指の爪が立てられ、驚いて身を震わせると彼の笑みが深まった。
    そのまま三本の指がさらに下に、かき集めた布をずらして胸の輪郭を辿っていく。
    驚きすぎて反応できない。
    胸元に視線を落として確認したら、そこで遊ぶ彼の指を見てしまったら、終わりのような気がしてドロシーはただ彼の顔を見つめた。
    ランドルフの顔は笑顔のように見えたけれど、よくよくその目を覗き込めば瞳は笑っていなかった。気付いた事実にぞわりと身体を走った怖気が合図だったように、彼の指の動き、その感覚が突然はっきりと頭に伝わる。
    「な、っ……ん」
    くすぐったい、のだろうか。似ているけどそれよりも切ない。
    よくわからない感覚と男性に肌を探られる羞恥。こぼれかけた声は高くいつもの自分のものじゃなくて、どうしたらいいのかわからない。
    逃げよう。
    そう思って身を引けば、彼の指がまだ柔らかい胸の頂きをえぐる。鋭く走った甘い刺激に反射的に身をよじるが、その指からは逃れられない。
    「も、いやっ」
    「うん、そうじゃないと困る。嫌がらせだからね」
    耳を打った言葉に目を瞠った。
    ドロシーは咄嗟に胸元の布を押さえていた手で彼の腕を払おうとした。でもその手を逆に掴まれて引き倒される。
    ぱたんと簡単に倒れた身体にドロシーは目を丸くした。
    掴まれた腕がひとまとめにされて捻られた。そう思った時には身体が床に倒れていた。頭上で押さえつけられている腕が少し痛い。けど背中に痛みはない。それくらい自然に。
    「ほら。これでもう君は逃げられない」
    乗り上げてきたランドルフが、耳許で囁く。
    その通りだ。どれだけ力を入れても上から押さえつける力は跳ね退けられない。ドロシーができることなどわずかに身をよじるくらいだ。
    「わかるかい?」
    まだかき集めた布が身体を覆っていて、見下ろしてくるランドルフが楽しそうに笑うから。彼がこれを嫌がらせだと言ったから。
    「まだ、大声を出せるわ」
    「そんなことを言ったら駄目だ」
    出来の悪い生徒に言い聞かせるような、その声だけが柔らかい。
    ドロシーの目の前で小さな布が揺れた。
    「こうやって、口をふさがれるよ?」
    唇を割って入ってくる彼の指ごと、その布を押し込められそうになる。
    ——こわい。
    ドロシーの目に浮かんだ怯えを見て、彼は笑った。いつものように。
    はっきりと見えてしまったそれに衝撃を覚える間に、口に含ませる素振りだけしたその布は、ドロシーの視界を通って床に落とされた。
    まるで冗談だとでも言うように。
    だけど怖さは消えない。
    「……お願い、手を離して。わかったから」
    昔から泣かない子供だったのに、ここに来てからは泣いてばかりのような気がする。
    ドロシーが涙を必死に堪えて訴えても、彼はそれを気にする素振りを見せなかった。
    「そうだな。どうせだから叫ぶ練習をしようか」
    「なにを言っているの?」
    彼の顔が近づいてくる。また口づけをされるのかと思った。あの日のように。だから顔を背けたのに、視界の端に移ったランドルフの唇は笑みの形に歪む。
    彼はそのまま、ドロシーの首筋に顔を沈めた。
    ぞわりと肌が粟立った。耳の後ろ、首筋、柔らかい部分を乾いた唇でくすぐられる。
    「ひっ」
    硬い歯が肌に当たった。当たっただけだ、突き立てられてはいない。だけど怯えたその肌の上を、宥めるように舌が這う。
    また耳許に上がってきた彼の唇が、耳たぶを食みながら囁いた。
    「もうほとんどの者が出払っている。庭園をしらみつぶしに捜しているよ。逃走や誘拐を疑って街まで下りた者も多いだろう」
    ランドルフの手が這いながら、ドロシーの身体を隠していた布を床へ落としていく。さっきはくすぐるように触れていた指が、今度はしっかりとドロシーの身体を確かめていった。
    「僕が知る限り、この階にはもう誰もいない。この状況で叫んでみて、助けが来るかどうか確かめてみたらいいよ」
    「ひ。いや。ど、して……」
    痛みでもない、くすぐったいとも違う。思わず声が漏れそうになる刺激が怖くて身体が動かせない。身体を揺らせばもっと強い感覚が走るかもしれない、そんな怯えで身を縮ませた。
    そんな風に逃げても追い詰められるだけなのに。
    「……んっ」
    大きな手のひらが泡立つ肌を撫でている。時折五指の指先に気まぐれに力がこもる。身体の柔らかいところを押されると駄目だった。
    「や……ぁ、……っ」
    身体をよじって逃れたいのに、押さえつけられて動けない。息もできない。下手に息を吐いたら、あられもない声を上げてしまいそう。
    「君は、もし見知らぬ誰かが現れて、ここから連れ出してあげると言われたら、その男について行ってしまうのかな」
    上体を起こしたランドルフがドロシーを見下ろしている。覗き込んでくる瞳に歪んだ顔を見られたくなくて、肩に顔を押しつけた。
    「知らな」
    「でも彼の目的は君の命か、よくて君の身体だよ。こんな風に……」
    大きな手のひらで胸をすくわれた。柔らかい肉を指先でもまれて、立ち上がりかけていた乳首の横をこすられて、どんどんそこが敏感になっていく。
    「や、ぁ……っ」
    どうしてこんなことになっているのか。
    止めて欲しい。話がしたい。でも顔を上げればランドルフの手が剥き出しの胸を弄っている様が目に入ってしまう。彼の手で歪む胸と、卑猥な形に変わりかけたその頂きから目が離せない。
    「や、やめてっ……」
    なけなしの気力をかき集めて、やっと口にした言葉。それにランドルフは一瞬動きを止めた。そっと視線を上げて彼を見れば、目が合った途端彼は笑った。
    彼の顔がゆっくりと下りてきて、唇の隙間から覗く舌がその頂きを舐めた。
    指とは違う濡れた感触が、彼の手に掴まれた胸の先端を這う。まだ柔らかいそこを唇で食まれて軽く吸い上げられた。
    「——っ!」
    ツキリと、胸から下半身に走った刺激は、鋭すぎて痛みと錯覚しそうだった。
    口の中でねっとりと舌が絡む。胸はやわやわと揉まれ揺らされて、なのに先端だけ熱い粘膜の中から離してくれない。
    舌の先で十分にしこったそこをえぐられると身体が跳ねた。
    「も、いや……!」
    お願いだからやめて。
    どうしてこんなことになったのかなんてどうでも良かった。ただ止めて欲しい。けど顔を上げたランドルフは、しゃぶっていた胸の先に軽く口付けると、今度は隣に場所を移す。
    「やぁ!」
    思い切り身をよじる。本気で抗おうとしたのに、たっぷり唾液で濡れた乳首を指で摘ままれたらそれだけで身体が動かなくなった。
    「ひ、いやっ……や、いやなの」
    指の合間に挟んで擦り合わされる。手のひらで乳房をゆらしながら、乳首の先端を指の腹でこすられた。これ以上は駄目なのに、どんどん気持ちよくなってしまう。
    「……んぅ、やめてぇ」
    甘いばかりの刺激に首を振る。
    反対の頂きも強く吸い上げられ、触れられてもいなかったのに尖りかけていた胸はすっかり形を変えていた。唾液を塗り込められるようにぐるりと舌が回り、先端を舌先でくすぐられる。
    「はあ、……あ、ぅん——っ」
    ひっきりなしに与えられる刺激。視界は涙でぼやけている。
    これ以上されたらおかしくなる。耐えられない。
    「あ、……」
    突然解放されて、ドロシーは恐る恐る目を開いた。
    じんじんとうずく胸はランドルフに突き出すように、まるで触ってくれと言わんばかり。そこから必死に目を逸らす。
    「ドロシー」
    囁きが耳許でどろりと溶ける。怖くて、ランドルフの顔は見られなかった。自分の身体からも彼からも必死で顔を背けると、ちょうど彼の指が、ドロシーの口に押しつけられた布を拾い上げるのが見えた。
    なにをするのか。不安になってその指先を見つめる。
    「そんなに怯えなくても、酷いことはしないよ。……いや、酷いか」
    頭上で彼に縫い止められていた腕は、しびれて動かせない。その手を掴まれて引き寄せられる。こんな時でも目を伏せた彼は美しかった。その唇が右の手首に寄 せられる。吐息が触れるだけでじんと痺れが身体を走った。身体の奥からぞわりと、さっきの感覚が震える。ドロシーはそれに泣きたくなった。
    両手首を合わせて縛るのは、さきほどの布だ。
    「なんで……」
    「怪我をしないように。——ここで手足を振り回すと危ない」
    彼にやめるつもりはないのだ。
    身体が重くて上手く動かない。それでも彼から距離を取りたくて、ドロシーは片膝を立ててにじり退こうとした。それも身体の下にあった布に足が滑っただけで終わる。
    逃げようとした。それを察したランドルフと見つめ合う。
    彼の手が腕を伝って下りてくる。直接的ではない愛撫が、収まりかけていた熱をゆっくりと煽った。
    どくどくと胸がうるさい。息が上がる。
    「ランドルフ」
    喘ぐような。懇願を目一杯込めた声は震えてどうしようもない。彼の名を呼ぶのは初めてなのに、半ば掠れたせいで彼の耳に届かなかったかもしれない。
    そう思ったけど、身体を下りていく手の動きが止まった。
    それに勇気を得て、なけなしの気力を振り絞る。
    「ほんとうに、いやなの」
    はっきりと声に出して伝えられたことに、少しだけほっとした。
    もう少しだけ勇気を出してランドルフを見る。彼はかすかに笑っていた。淡いモノクロの影の中で、そこに滲む感情が頼りなく揺れている。
    初めて見てしまった彼の気持ちに息を呑んだ。
    それを見て、ランドルフはまた笑みを深め、行為を再開した。
    「……っ」
    下りてきた手が耳許をくすぐって、胸元へ下りる。
    もう駄目だと思った。それが何かはわからない。駄目だと、それだけを思ってドロシーは必死で身を捩ったが、掴まれている手も押さえ込まれた身体も何も変わらない。
    大きな手のひらが身体を確かめるように這う。徐々に胸の頂きに近づくそれを、ドロシーは息を詰めて待った。
    押しつぶされるように揉まれて、薄まりかけていた性感が一気に蘇る。
    「あぁ……っ、ん、やあ」
    すぐに涙で視界がぼやける。ランドルフの表情が見えなくなって、ドロシーはきつく目を閉じた。
    彼の顔が近づいてくるのを肌で感じる。唇に吐息が触れる。
    「ん、ぁ……」
    だけど口づけは落ちてこなかった。
    手首を押さえる手が失せる。それに気付いたドロシーは慌てて己の腕を引き寄せた。彼と自分の間に腕を置いて、距離を取りたい。
    彼が笑った気がした。
    気配がまた近づいてくる。硬く身体を強ばらせていると、手を掴まれてその手のひらに口付けられた。
    驚いてまぶたを上げてしまう。すぐ間近にランドルフの顔があった。口づけの距離よりほんの少し遠くから、視線がまっすぐにこちらを向いている。ゆっくりと細められる目の鋭さに身がすくんだ。
    「ひっ、……ぅ」
    目を伏せた彼が、その視線の先にあった首筋に噛みついたのだ。
    同時に小さく跳ねる身体を押さえつけた手のひらが、そのまま腹部まで下がっていく。
    ドロシーは思わず目の前の指先で口元を覆った。走った衝撃が本当に痛みだったのかもわからない。小さな水音がかすかに響く。甘噛みの痕を舐められてぞくぞくした。
    怖い。
    「……ぁ、んぅ……ゃっ」
    自分の腕で押しつぶしても胸の尖りは上を向いていて、ランドルフの服に擦られる。もうそれだけで下半身が熱を持ったように痺れた。
    じっと身を強ばらせて耐えていたら、彼が胸を半ば隠す腕を軽く持ち上げ、そこに滑り込んでくる。
    「やっ、やだ……、あぁっ!」
    両手で胸を揉まれて舌で頂きをなぶられる。今までよりも強い刺激に身をよじったが快感からは逃げられない。
    「……はっ、あ、あ、んん……!」
    こんな声、聞いたことがない。
    自分の声なのに甘く掠れるそれは聞くに堪えなくて、ドロシーは手首に絡んだ布に必死で噛みついた。
    じゅ、と彼がそこに吸い付く。
    「ん、んん……っ!」
    そのまま舌先で先端を擽られた。ぞくぞくとした痺れが下肢にまで広がって、それを散らしたくて脚を動かした。
    「っ、ン……!」
    ぬるりと肌が滑る。
    (なに、これ……やっ)
    わからない。怖い。なのに身体は勝手に足をこすり合わせる。何かがうずいて、動く度、かすかな予感を拾い上げてしまう。
    「んぅ、……あ、ダメッ!」
    ランドルフの手がゆっくり下に伸びていく。腹部を撫でられて指先がへそにかかった。
    「……あっ!」
    軽く抉られただけだ。なのに鋭く走った感覚が、ドロシーの中に刺さる。とろりと身体の内側から熱い何かがこぼれたのがわかった。
    「やめっ、ふ、ぅう……っやだぁ……ッ」
    身体がどうなっているのかわからない。
    怖いとそう叫べない代わりにぼろぼろと涙が溢れる。でもランドルフの頭はまだ、彼が濡らした胸に熱い息を落としている。
    そして手が、そのまま下肢に降りた。
    「おねが、……やっ、そこは、あ!」
    淡い茂みをくすぐっていた指が、濡れたそこをかすめた。ドロシーはぎゅうときつく足を合わせる。すると手のひらは太股に移動した。
    彼の指先が繊細な動きで脚の輪郭をなぞる。胸への直接的な愛撫より、触れるか触れないかのその動きにドロシーの意識は釘付けになった。
    「は、ぁあ、……はっ、あぁ……」
    彼の指が大腿の外側から、後ろを回って内側の柔らかい部分に触れる。どうしてか荒げてしまう息で胸が弾む。じわりと濡れる下肢に触れるか触れないか。
    そこで遊ぶ指に思わず強請りそうになった頃、ぐっとそこを掴まれ、脚を開かされた。
    「ッあ、いやあ……!」
    いつの間にかランドルフの影が胸元から、下肢の方へ移動していた。彼の手で、片足太ももが胸に付くように持ち上げられている。
    すべて見えてしまう。
    「ひッ……やぁ、おねがい、見ないで……ッ」
    自分でも見たことがない場所。
    どんな状態なのかわからないけど、身を捩るととろりと何かが肌を滑り落ちていった。
    ——その様子を、ランドルフが眺めている。
    全身が真っ赤になった。そう思うくらい一気に熱があがった。ふと口元だけ笑みを浮かべる彼の表情が目に焼き付く。彼の後ろがうっすら白んでいて、ドロシーはここの扉が開いたままなのも思い出した。
    (やだ、やだ、やだ!)
    ランドルフが身をかがめるのにも怯えてしまう。けれど身体は折りたたんだ脚ごと上から押さえられていた。
    「……ぁ……っ……ッ」
    ゆっくりと、腹部に落ちる口づけ。彼の柔らかい髪が肌に触れる。種類の違う刺激に身体が震えた。この震えは悦びだと、ドロシーは唐突に理解した。
    脚を閉じたいのに、それは許してもらえない。
    「あ、……んっ」
    ドロシーは驚いて彼を見た。
    足の甲に口づけを落としながら、ランドルフもこちらを見ている。彼の目には自分の身体すべてが映っている。改めて気付けばその視線が絡みつくようで、足首 から脛へと唇が上がってくる、そうしながらも視線だけはドロシーから外さない彼に、羞恥の余り嗚咽までもれそうになった。
    脚を外に広げられながら、彼の唇が内腿の柔らかい部分を食む。時折落ちる口付けは鋭くて、なのにかすかな痛みは下肢を痺れさせた。
    身体のどこもかしこも熱がうずいてたまらない。
    拘束はずっと緩くなっている。けれど、煽られた身体を中途半端に放置されて、動けない。
    「っ、は、あッ……ランドルフ。おね、がいだから」
    やめて。もう終わらせて。
    そう言いたかったのに、その声は自分でもはっきりわかるくらい甘く掠れていた。羞恥のあまり布のほどけかけた腕で顔を隠す。
    「……ぁ、ああっ!」
    そっと指が表面を撫でた。目を閉じていてもぬるりと滑る指が、そこがどれだけ濡れていたかをドロシーに知らしめた。肌に張り付いた茂みを撫で付けるように、二本交互に指先が泳ぐ。
    逃げたいようなもどかしさに掴まれていない方の足先が床を滑った。
    「ぁ、は……っ、ん、あ……っああぁ!」
    するりと指が割れ目を滑った。上から下にすくうように。
    指が浅瀬を掻くように動く。声を堪えればその間に、くちくちと低く響く水音が耳を打った。でも声を堪えられない。浅く差し込まれた指先の動きに合わせて、甘い痺れが波のように身体を襲う。
    「ん、あぁ、……ひあッ!」
    きつく胸を吸われて、ドロシーは驚いて顔を上げる。
    ランドルフはドロシーの顔を覗き込みながら、じんわりと甘く熱をもつ胸の先端に舌を這わせた。桃色に染まった肌、その膨らみの頂きは見たことがないくらい真っ赤に染まっている。その卑猥な光景に更に蜜を垂らすように、ランドルフはその秀麗な顔を隠微な笑みに歪ませた。
    「濡れてるね」
    「っ、あ……? あ、ああっ……ッ、あっ! やめ……っ」
    目を合わせた、そのタイミングを計ったように指が陰唇を割り開き、あわいを大胆にくすぐる。そうやって中に潜り込もうとする指先とは別に、親指が上部の突起を強く擦った。
    「ひ、ああんっ!」
    触れられて初めてその存在を知った。
    頭の中が白くなるくらいの衝撃が快感なのだと教え込むように、膨らんだそこを指の腹でなで上げられる。その形を教えるような動き。さっきよりずっと弱いその刺激は、ひたすら甘く身体に奥へ響いていく。
    「ぁあッ……あ、あ、あ……んんっ……」
    くすりと笑われた気がして、ドロシーは両腕で顔を覆った。
    その手はすぐに、ランドルフに取り払われる。
    「あ、なんっ……ひゃ、ぁ、ああ!」
    胸の頂きを吸われ、散々教え込まされた胸への愛撫に身体がふるえた。きゅうと下肢が切なく引き連れて、奥へと続くそこがうごめく。
    「は、は、……ん、っあ、あん」
    目を開くと、ランドルフが舌で乳首を舐りながらドロシーの顔を見ていた。
    「みな、ッ……は、あぁ……」
    とろりと垂れる蜜をすくっては、下肢の突起に塗り込められた。くるりと指の腹がそれを転がして、またこすり上げられる。
    「っは、あ……な、で……こんな、あっ、……」
    繰り返される刺激に身をよじる。けど、折り重ねた太ももの上から彼の身体に押さえられていて、わずかな動きは指を絡めるさらなる刺激にしかならない。
    「ダメ、も、……あ、も、……あぁ」
    仰け反るドロシーの喉元に彼の舌が這った。
    喉の奥からせり上がってくる熱を必死で堪えようとするのに、ランドルフの指がうごめくたび力が抜けて、唇を噛むこともできない。
    「あッ、ぁあ……んん、ああ!」
    動きの緩急が失せて、下腹部を甘く痺れさせていた熱がせり上がってくる。
    ぐちゅぐちゅと水音を立てながらドロシーを掻き回すのは、ランドルフの指だ。
    ぞわりと背筋を這い上がったのは、羞恥だけではなかった。
    うっすら開いた目に、ランドルフの影が映る。ざらりと心を舐め上げる背徳感。
    「みな、で……っ、やッああ、あっ、ん!」
    ランドルフの視線が絡みつく。目を閉じていてもわかる。
    何かがせり上がってくる予感に声が引き攣れる。迫る未知の感覚が怖いのか、顔を見られているのが嫌なのかわからない。
    「そろそろかな」
    しこった尖りを指でえぐられて、何かが決壊する。抑えられない。
    「——ッ、あ、あ、ん、……あああっ!」
    目の前が真っ白になるような快感に、ただ意識が攫われた。

     

    身体が重い。
    少しずつ視界がはっきりしてきた。ドロシーがかき集めた布でできた丘陵だとか、やわらかい光沢の曲線を描くリボン。ちらりと見える木製の棒はハンガーの一部だ。
    寝そべって、頭までだらりと床に付けたドロシーは床とほぼ同じ高さからそれを眺めていた。
    「わかった?」
    上から声が落ちてきた。ドロシーは目線だけでそれを追う。ランドルフがいた。彼の衣服は少しも乱れていない。
    彼の姿を見て、羞恥が一気に蘇った。
    「……っ」
    反射的に半ば身を起こした途端、じわりと走った快感の残り火。じくじくとうずくそこが彼の指の感触を反芻するように震えて、ドロシーは唇を噛む。
    ランドルフはさっきまでのことがまるで夢のように、そこに膝をついたまま落ち着いた様子で見下ろしてくる。
    「君の夫の座は、男にとってはとても魅力的なんだよ」
    「……なに、それ」
    ゆっくりと身体を起こす。自然と俯く形になって、視界からランドルフが消える代わりに、真っ赤に熟れた乳首やほてりの収まらない自分の身体が目に入る。
    確かに女王の配偶者というのは魅力的な地位だろう。こんな風に身体から籠絡しようとする人間もいるかもしれない。
    (でも、馬鹿らしいって笑えない)
    気持ちいいと思ってしまった。もっとして欲しいと。嫌がらせだと、嫌がれと、暗に学習しろと言われていたのに。
    今もきっと、少し触れられただけで続きを強請ってしまう。
    「もう、いや」
    手近な布を掴んで胸の前で握りしめた。肌を滑る布の感触がいつもよりはっきりしていて、そんな自分の身体がドロシーはすごく情けない。
    「無理。私には無理よ。もう家に帰して」
    何をされても毅然とした態度を取るなんてことできない。
    そう目で訴える。すぐにうるみそうになる視界を瞬きで保ちながら、必死にランドルフの気持ちにすがった。
    彼は困ったように少し首を傾けて、表情の薄かったそこに笑みを浮かべる。
    彼の手がゆっくり顔に伸びてきた。
    「君はもう逃げられない。そんなに未練があるなら、いっそどこにも帰れない身体にしてあげようか」
    頬を撫でる、その体温は優しいのに指先が触れるだけでドロシーの身体は勝手に熱を持つ。何を言われたのか、その理解よりも、ドロシーの身体は甘い熱の記憶を脳裏に蘇らせる。
    見透かされるのが怖くて目を伏せた。そこに影が落ちて、顔を上げるとすぐそこにランドルフがいた。
    そっと唇を塞がれる。
    その優しい感触で終わるのだと思ったのに、唇の隙間から熱い舌が差し込まれた。驚いて更に緩んだ歯列を割って、それが口内を這い回る。奥に逃げた舌を舐められ、押し返そうとすれば絡みついてくる。
    「ん、ぁ……ぅ」
    口蓋を舌先で擽られて喉の奥まで舐められて、力の抜けた舌をきつく吸われる。直接頭に響く水音と明らかに性感を煽る愛撫に、熱の収まりかけていた身体が震えてしまう。
    頬に添えられていた手が首の後ろから後頭部に回って、仰け反って倒れかけたドロシーの身体をしっかりと支えていた。
    溢れた唾液はどちらのものか。飲みきれないそれが口の端からこぼれ落ちる。
    (私、もう……)
    もし彼がドロシーを本気で誘惑しようとするなら、きっとひとたまりもない。
    絡んでいた舌がほどけ、軽く唇を這ってから離れていく。
    「……ちゃんとわかった、から」
    声が震えるのは長い口づけのせいだ。
    ぼんやりとした視界一杯に広がる彼の顔を見て、その背に縋りかけた手でドロシーは固く拳を握った。
    このひとには恋人がいる。
    (なのにこんなことさせちゃだめ)
    言い聞かせている間も視界の隅で彼が微笑むから、顔を上げたらまた口づけが降りてきた。
    「ドロシー」
    「だめよ、もう」
    唇に触れるだけの優しい口づけを繰り返されて、なのに彼の吐息と声だけで身体の奥が熱くなる。
    (どうしてって、婚約者がいるんでしょうって、正気付かせてあげなきゃいけないのに……)
    それとも彼も、いや彼こそが、王位に近づくためドロシーのことを欲しているのだろうか。
    (まさか。そんなことあるわけない)
    彼の手がまたドロシーの身体に伸びてくる。足の輪郭をなぞられたところで、その手がぴたりと止まった。
    ランドルフ様、と遠く呼びかける声がする。
    止まった手、離れる身体。それにドロシーは安堵よりも失望を覚えてしまった。
    立ち上がったランドルフが扉に手をかけて、こちらを見た。そのまま出て行くのかと思ったのに、彼はそこに立ったまま、ドロシーを見つめたまま、扉を半ばまで閉めようとする。
    その扉は、閉めてしまえば内側からは開かない。
    ランドルフが視線で何かを問いかけている。
    それが何かはわからなかったけれど、その扉が閉まったら、もう取り返しがつかないことだけははっきりとわかった。
    その扉から差し込む明かりだけが光源だ。半ば閉じられ半減していた明かりが更に細くなっていく。
    「女王の夫になりたいの?」
    たぶん違うと言って欲しかったのだ。
    けれどそう口にしてしまってから、これを問うなら彼の恋人の話を出した方がまだましだったと後悔した。
    ランドルフの瞳にはっきりと失望が映る。
    彼は物言いたげな眼差しを向けた後、溜息と共に部屋を出ていった。

     

    第三章

     

    あの夜、庭園で見かけたのはやはりゾフィーで間違いなかった。
    けれど。
    「ゾフィー様はハロルド公のご婚約者におなりです」
    それはランドルフとゾフィーの婚約がとうの昔、ドロシーが現れる前に解消されていた、という話より衝撃的だった。
    お茶の葉を蒸らしながら、その侍女はドロシーの問いに慎重に言葉を選んでいる。
    「ベッケンドルフ家の意向なのでしょう。かの侯爵家はもともと、その、家格を上げることに熱心ですので」
    つまりベッケンドルフ家は国王になれないランドルフを早々に捨て、即位の可能性が残るハロルドを取ったということだ。
    「それって大丈夫なの?」
    その問いが、国内の状況とランドルフの心情のどちらに重きを置いたものか、ドロシーにもわからない。
    どちらにせよ愚問だ。ハロルドとの婚約もランドルフの心情も『大丈夫』なはずがない。ドロシーがあの日見た彼の様子が、それを物語っている。
    「ゾフィー様がコークブルク公国の公妃となられること自体は問題ありません。けれど、この状況でベッケンドルフがどう動くのかは……」
    ハロルド公は確かにこの国の王位継承権を持ってはいるが、潜在的な敵でもある。
    「よくわからないのだけど。いくらベッケンドルフ家がコークブルクの王妃を輩出したからといって、エルリアでの地位が上がるものなのかしら?」
    「それは、どうなのでしょう。詳しくはランドルフ様からお訊きになるのがよろしいかと」
    「……そうね」
    暗にランドルフに会うように勧められ、ドロシーはそっと息を吐いた。
    彼とはこの数日、会っていない。
    心の整理が付かなくて数日避けるようにしていたら、ランドルフの方から距離を置かれてしまった。謝りに行こうにも、この王宮でドロシーが自由に動けるのは、私室にと与えられた二間続きの部屋のみだ。部屋から一歩出れば自由はない。
    ドロシーは今でも、何度も足を運んだ食堂や大広間がどこにあるのか知らなかった。
    侍従が示す道順が複雑で、その上いつも違うからだ。わざと遠回りさせられる。ドロシーの逃亡を恐れる彼らは、彼女を王宮の外どころか、奥まった一画から出 すつもりがないらしい。ドロシーはこの国に来てから今まで、テラスから見える庭に降りたことすらない。それくらい、彼らは必死だった。
    カップに紅茶が注がれていく光景をぼんやりと眺める。
    「そうでした。ドゥルマント様から、明日のご予定が届いておりますわ」
    「ドゥルマントって、ええと、宰相の?」
    差し出されたカードは彼の性格を表すようなきっちりとした文字で、事務的な言葉が綴ってあった。
    「今夜予定の晩餐会は明日に変更……」
    ドロシーを畏まった場に慣れさせるための、身内ばかりの食事会には、毎回当然のようにランドルフも同席している。
    綺麗なシャンデリアが下がる豪華な部屋で、淡い橙色の明かりに照らされる彼の横顔はとても静かで美しい。もし何の憂いもなくあの姿を見つめることができたなら、とても楽しいだろうに。
    ドロシーは熱い紅茶を一口含んで、その香りに気を紛らわせた。そこに扉がノックされる音が響く。
    「ドロシー様。ランドルフ様です」
    動揺の余りカップを取り落としそうになった。
    開いた扉の向こうには確かに彼の姿があった。廊下に立ったまま部屋には入らず、ただドロシーに目を向けている。
    「入っても?」
    「……ええ」
    きっとあの肖像画のような笑顔を浮かべているんだろう。そう覚悟してドロシーは彼の顔を見る。
    予想通りの柔らかい笑みがそこにあった。
    「なんのご用?」
    我ながら冷たい声だった。でも今はまだ、彼に優しい言葉をかけて欲しくはない。
    ランドルフはそんな彼女の態度に軽く息をつく。
    「諸事連絡だよ。二週間後に舞踏会が開催されることになった。即位の前に、君を正式にお披露目するんだ。おそらくハロルド公も居合わせる。彼も数日の内にエルリア入りするだろう。君と直に会わせるつもりはないけど、気をつけてくれ」
    「何を?」
    「わからない?」
    彼は首を傾けて、口の端だけで笑った。一瞬で塗り変わった雰囲気に、彼が何を指しているのかを察してドロシーは顔を真っ赤にする。
    「誰もあんな真似するはずが……ッ」
    「君がそう思いたいだけだ。それとも、本当にわかっていないのかい?」
    ここでわからないと言ったら。そう思えば過ぎる淫靡な予感に身体が熱くなる。
    これでは何も言えない。ドロシーが言葉に詰まったのを見て、ランドルフはまたいつもの彼に戻った。
    「わかっているみたいだね。良かった」
    にこりと投げかけられた笑顔の、その余りの衒いのなさに、ドロシーはつい口を開いてしまう。
    「謝るつもりはないの?」
    「ないよ。僕は悪かったとは思っていない。君は、言葉だけの謝罪でも構わない?」
    「そんなの意味がないわ」
    「じゃあいいじゃないか。君はずっと怒っていればいい」
    何かに傷ついたとしたら、ドロシーの心を抉ったのは今このときだ。
    (私がずっと怒って、こんな風に、ずっとあなたを避けてても気にならないの?)
    彼はドロシーを見つめて綺麗に笑う。
    「気にすることはないよ。僕も怒っているから」
    「なっ……!」
    子供じみた意趣返しなのか、本気なのか。
    睨み付ければ彼はやっぱり笑って、ドロシーの元へと足を進めてくる。
    「ところでドロシー。君は馬には乗れるかな」
    「乗ったことはないわ」
    「それは良かった。じゃあ一緒に遠乗りに行かないか」
    聞こえなかったのだろうか。
    「私、馬には乗れないわ」
    「うん。もし乗れるなら連れてはいけないからね、良かったよ」
    もしドロシーが馬に乗れたとしたら、そのまま馬を駆って逃げるかもしれない。だから遠乗りには行けない。
    ドロシーが暗に示された内容をかみ砕いて理解する間、側付きの侍女が彼にも席を用意しようとしたが、彼はそれを手で制す。
    「話したいことがあるんだ」
    「話?」
    「王宮では余り大きな声では言えな……くはないな。ただ僕がここでは言いたくない話だよ。それに君にはまだ説明してないだろう」
    突然の真面目な色に、ドロシーは戸惑い首を傾げる。
    彼はそれを見て苦笑した。
    「どうして僕が継承権を失ったのか。そもそも君が巻き込まれたのは誰のせいなのか」
    ——知りたいだろう?
    そう問われてしまえば、行きたくないとは言えない。
    「二人で行くの? 貴方が私を馬に乗せて?」
    「ああ」
    「他には?」
    「もちろん護衛が付くよ」
    「二人きりじゃないのね?」
    まだ、ランドルフには近づきたくない。緊張してしまうから。
    これくらいの距離でも気もそぞろになってつらいのだ。諦め悪く断る理由を探してなかなか頷けないドロシーに、ランドルフは重ねて言う。
    「君は、まだしばらくは王宮からは出られない。気晴らしの機会は大切にした方がいいんじゃないかな」

     

    森の生活に慣れたドロシーにとって、こんなに見晴らしの良い景色は初めてだった。
    「気に入った?」
    目を輝かせていたのが判ったのかもしれない。
    「ええ、素敵。こんな光景、想像したこともなかった」
    今も地平線まで見渡せる草原の上をさざ波のように風が流れていく。ドロシーは髪を押さえて前を見つめた。
    (どこまで行くのかしら)
    頑なに彼から視線を逸らしていても、ドロシーを支える力強い腕の感触を意識しないではいられない。護衛は付いてきているのか。風が後ろに流れるばかりで気配が伝わらず、まるで彼と二人きりみたいだった。
    気がつけば馬の足がまばらに樹木の茂る林に入る。続く騎馬の音はまだ聞こえてこない。
    「こんなところに来て、危なくはない?」
    「どこに居たって完全に安全な場所なんかないよ」
    「それはそうでしょうけど。あなた、王子様なんでしょう?」
    「僕の話かい? 君もようやく自分の立場を理解してくれたのかと思ったのに」
    ドロシーは溜息と共に差し出された手を取って、彼に倣い馬の背から滑り降りた。
    「護衛は付いているよ。君の身に危険はない」
    いざとなれば僕が盾になるさ。
    その言葉はどこか投げやりにも聞こえて、ドロシーはそっと彼の様子を窺った。
    相変わらず彼の装いは黒一色だ。上質な布地を示す光沢。くすみ一つもないその黒は、自然の中では場違いに浮いていた。
    ランドルフはドロシーの手を掴んだまま、引いてきた馬に水を飲ませている。林の中を走る水の流れはささやか過ぎて小川というには少し足りない。だがその分だけ水は透き通って見えた。
    低木に馬をつないだランドルフが、またドロシーの手を取り引いて、水の流れに沿うように歩き出す。
    「僕の顔に何かついてる?」
    「え?」
    「君にそんな風に見られるのは初めてだから、緊張するな。何か気になることでも?」
    どこかからかうような笑みだった。表面的な感情なら、彼はむしろ判りやすいのだ。だから逆に、隠されてしまうと見えないのかもしれない。
    あの日、月の下でドロシーが見てしまった光景は、もしかして別れの場面だったのだろうか。ハロルド公との婚約を聞かされたのかもしれない。彼は傷ついて、なのに翌朝にドロシーが引き起こした騒動に振り回され、苛立って、そして——
    「ドロシー?」
    「ねえ。だいじょうぶ?」
    「なにがだい?」
    「……婚約の、解消とか。それで彼女が……」
    すぐに他の人と婚約を結び直したこと。
    それがハロルド公であったこと。
    視線は自然と下に落ちていた。だからランドルフがどんな表情を浮かべたかをドロシーは知らない。
    「ありがとう。案じてくれて」
    繋いだ手を引かれて、手の甲に口付けられた。肌を擽る唇の感触にドロシーは俯いたまま頬を赤く染めた。
    「まあ、彼女はそういう人だから」
    「そういうひとって……」
    恐る恐る目を向けると、彼は何でもない顔をして笑っている。
    「欲望に忠実で、まっすぐな女性だよ。彼女がああいう道を選んだなら仕方ない」
    ランドルフはゆっくりと足を進めている。きっと彼に目的地などないのだろう。
    「仕方ないって。好きじゃなかったの?」
    「彼女のそういう部分を僕はそれなりに好ましく思っていたけど、そこに特別な好意があったかと訊かれると困るかな」
    「それって、愛していなかったってことになるわよ?」
    「はっきり言うね」
    隠すように顔を伏せた彼がおかしげに笑う。
    「え? でも、婚約していたのよね?」
    「そうだよ」
    「でも好きじゃないの?」
    ランドルフが振り返り、ドロシーを見た。
    「真面目な話をしようか」
    彼はそう言ってから、少し視線を彷徨わせた。言葉を探すみたいに。
    促され、ドロシーは倒木の上に腰掛ける。
    「僕が継承権を失ったのは、両親の結婚前になされた取り決めのせいだ」
    ドロシーの隣に腰を下ろしたランドルフは、林の影を見つめながら言葉を続けた。
    「僕の母はとても美しい人だった。コークブルクの公女でね。父に見初められてエルリアに嫁いだ」
    よくある話だろう?
    彼は腕を組んで首を傾げる。少しだけ無理のある笑顔。宮殿で彼が言った通り、本当はあまり話したくないのだろう。
    「けれどその頃、既に父には愛妾が多く居たんだ。父はよく言えば楽天家でおおらかで、優しくて多情な人間だった。思い込むとそればかりなのに、満足すればすぐに忘れてしまう薄情な人でもあった」
    批判も擁護も滲まない、事実をただのべる声。
    じっと見つめるドロシーの視線に気付くと、彼は一瞬だけいつもの彼に戻って笑いかけてくれた。けど呼吸一つの間もなく伏せられた目からはまた感情が消え失せる。
    「だから母は婚姻に際し一つ条件を付けたんだ。もし父の子が王位に即くならば、それは十二代国王である父とその正妻との間の子であること」
    ドロシーは聞かされた内容をかみ砕くように眉を寄せる。
    「つまり正妻である母以外の女性と子をなしても、その子には継承権は与えられない。実際に僕には異母弟がいたが、彼は継承権を得られなかった。彼を飛ばして継承権二位は従兄弟のものだった」
    「弟さんがいるの?」
    「ああ。僕と違ってとても出来た弟だったよ。いつも僕を立ててくれた。昔から僕は彼の方が王に向いていると思っていたんだ。なぜ父はあんな約束をしたのかと、幼心にも悔しかったな。母には悪いけど」
    色鮮やかな感情がその面を過ぎった。過去を懐かしむ視線はとても柔らかい。ランドルフの異母弟に向ける情愛がはっきりと目に見えた。
    「弟さんは、今は臣下に?」
    王族として暮らしていたなら紹介されているはずだし、謁見式で気付いただろう。だから難しい立場を捨てて臣下に下ったのかと、そう思った。
    ドロシーを見つめて、ランドルフは申し訳なさそうに微笑む。
    「いや。事故で亡くなったんだ」
    そう告げられてから、遅まきながら彼の語り口が常に過去形だったと思い至った。
    ドロシーが謝罪を口にしかける、それを制して彼は話を続ける。
    「すまない、話が脱線してしまった。母が出した結婚の条件に父は喜んで同意したそうだよ。それで母が手に入るならと。だけどこれはエルリアとコークブルクという国同士の取り決めだ。あのひとはもう少し慎重になるべきだった」
    先ほどの柔らかい空気が夢だったように、また淡々と彼は語る。その説明を遮ってまで話を戻すのも気が引けて、ドロシーは大人しく彼の話に耳を傾けた。
    「ちなみに、僕は正真正銘二人の間の子供だよ。僕と君の顔立ちが似ていないのは、僕が母に似たからだ」
    「それじゃあなぜ?」
    「父は母を迎える前に、既に結婚していたんだ」
    「え?」
    「つまり父と母の婚姻は成立しない。よって正妻の子でない僕には国を継ぐ資格はない」
    確かにそうだ。教会は重婚を認めていない。
    「そんなこと、本当に?」
    「この話をハロルド公が持ってきた時に、そんなことはありえないと断言できる人間はいなかった。僕の父はそういう人なんだ。即位前、若かりし頃の自分が秘密裏に結婚していたことなんて、すっかり忘れていたんだろう」
    仕方がないとでも言うように彼は笑う。きっと先代はこんな風に、色んな人に苦笑を浮かべさせながらも慕われるような国王だったのだ。
    ドロシーは彼の柔らかい雰囲気に促されるように、ささやかな疑問を口にした。
    「でもその条件って。もし二人の間に子供が生まれなかったら?」
    「離縁されていただろうね、母は」
    「そんなの——」
    「それで良かったんだ。むしろ、母としてはそうなることに一縷の望みを賭けていた」
    そう口にした彼は、この日見た中で一番美しい笑みを浮かべていた。
    だから理解が遅れる。
    ドロシーは聞き心地の良い声が紡いだ文節を頭の中で繋ぎ直して、真っ青になった。話の発端、自分が彼に向けた問いを思い出して。
    降り注ぐ木漏れ日はひたすら優しい。
    「好きじゃないのに婚約していたのかと君は訊いたね。そんなことはないと言えたら良かったんだけど、残念なことに、僕は彼女の息子なんだ」
    そう微笑む彼は、暗に愛のない結婚を肯定している。
    けれどそこに、父親を語る時には見せなかった刺が見えて、ドロシーは戸惑った。今の話が事実なら、彼は彼の母親にとっては望まれなかった子供だ。だったら——
    「お母様に、ひどいことをされたの?」
    はっと気付いて口を噤むが遅い。彼はドロシーの失言に目を瞠って、そしてすぐに笑った。
    「ああ、大丈夫だよ。あの人は子供が産まれてしまってからは覚悟を決めて、完璧な王妃をやりとげた。本当に完璧だった。いささか過ぎるくらいにね」
    「それって……」
    「ゾフィーはそういうところが母に似ていた。だから僕は、彼女を愛せなかったんだろう」
    ドロシーはその横顔に手を伸ばしかけて、やめた。
    いつの間にか、彼の雰囲気はただ過去を語るだけの穏やかなものに戻っていた。
    「ごめんなさい」
    「何が?」
    「だって、あまり思い出したくないことでしょう?」
    「そんなことはないよ。それに、話すと決めたのは僕だ。今だって、君に話せとも命令されてはいないだろう? 君が気に病むことは一つもない」
    彼の手がドロシーの頬を包む。
    彼女のために微笑んでみせたというには、彼の浮かべた笑顔はどこか嬉しそうだ。
    「どうしてそこで笑えるの?」
    「今日の君は僕に尋ねてばかりだね」
    「……そうね」
    ドロシーは一度目を伏せて、また彼を見た。
    「でもきっと、話してくれた方がいいのよ。誰かに聞いてもらった方がいいの。私もそうだったから」
    誰に話したって何が変わる訳でもないけれど、心は軽くなる。
    彼はただ微笑んだ。彼が身をかがめてくるのを、ドロシーもただ眺めていた。
    唇に唇が触れる。その先はない、ただ優しい親愛の口づけだ。
    「僕が笑うのは、君が僕のことを案じてくれるからだ」
    ドロシーは、彼がこうやって伏せ目がちに視線を横に滑らせる動作だとか、綺麗なその手が口元を覆う仕草や、その後ドロシーに向き直る様が好きだ。
    ランドルフは口を開く一拍前に青い瞳を陰らせた。
    だけど瞬き一つで思い直したみたいに、その瞳が悪戯っぽく輝く。
    「君は、完璧な王様とはどんな生き物だと思う?」
    「それを私に訊く?」
    ドロシーは思わず顔をしかめる。
    「とりあえず、ハロルド公のように私欲に溺れなければ及第点なんでしょう?」
    「そうだね。けどそれだけでは完璧と言うにはほど遠い」
    それはそうだ。
    今度はドロシーが顎に手を当てて考える番だった。
    「私が国民なら、国を大事にしてくれる王様がいいわ。仕えるんだったら、このひとのために働けたら幸せだってくらい、……やっぱり国を一番に考えてくれる王様かしら。人として尊敬できて、大きな欠点はなくて、優しくて。って、理想を並べたらきりがないわよ」
    もしドロシーの立場が昔のままなら、笑いながら思いつくだけ並べ立てたかもしれない。けれど自分が女王になるかもしれない状況でそれは難しい。
    (つまり、あなたみたいな人でしょう?)
    そう思っても、目の前で笑う彼にそれを告げないだけの分別は、ドロシーも持ち合わせていた。
    ランドルフは優しく微笑んでいる。
    「僕の母は、完璧な王とは無私無欲、国のために生きて国のために死ねる者と定義していたみたいでね」
    「私、そんな人がご主人様は嫌だわ。つまらないじゃない」
    また彼の母親が話題に上ったことに、ドロシーは少し驚いた。だけどあえて深くは考えず、思ったままを返す。
    それは彼の意表を突けたらしく、彼は吹き出した。
    「それを言うなら、そんな女王にはなりたくない、だろう」
    「もちろんなりたくだってないわよ」
    その前に、きっとなれない。
    これは何の話なのだろう。女王になる前の心構えの話だろうか。ドロシーは訝しく思う気持ちを隠さずにランドルフを見つめる。
    「つまり僕は、そう育てられたってことさ」
    彼の表情にはなんの陰りもない。
    「……無私無欲?」
    「ああ」
    「自分がないってこと?」
    「ないってこと。でも困ったな。まさか君につまらない人間だと言われるとは思わなかった」
    「そんな意味じゃないわ!」
    思わず返せばランドルフはまた笑い出す。倒木に上体を倒すように寄りかかって、そこからドロシーを見上げていた。
    「……じゃあ、たとえば。幸せになりたいと思ったことはないの?」
    「そう願えたら良かったと思ったことは、一度だけある」
    ——幸せになりたいと思えたら良かったのに、と?
    ドロシーの祖父は己の孫娘を愛していたが、息子夫婦を想う気持ちの方が強かった。だからドロシーがどれだけ努力をしても、彼は笑わない。死ぬまで一度も昔のようには微笑まなかった。それは辛かったし悲しかった。それでもドロシーは、幸せになりたいと願ったことはない。
    幸せだったからだ。
    「だけどどうにもならない。そんな風に思えば辛くなるだけだったよ」
    懐かしむように、遠くに見つめる己の過去をまるでいとおしむように、彼は目を細めて木立の間を眺めている。
    「国が平和で、国民が幸せならそれで良いんだ。昔から彼らの幸福を願わないことはなかったし、それで満足することを覚えたら、僕も楽になった」
    彼はドロシーに『諦めた』と言った。
    分厚いカーテンで囲った世界でドロシーに子供の頃の話を語って聞かせた。大好きな犬を傍に置くことができなくて、許されなくて。あれはいつの頃の話だろう。
    きっと彼がまだ幼くて、決まり事に抗ってまで自分を押し通すことができなかった頃。
    「そんなのおかしいわ」
    「もう過ぎたことだ」
    「国民が幸せならあなたも幸せなの?」
    「そう。僕にはそれしかない。我ながら王としては理想的だ」
    「なら今も貴方は幸せなのね?」
    「そうだね。君がいる限り」
    「貴方は国民を愛しているのね?」
    「そうだよ」
    「だけどあなた、だってこの状況じゃ。もう愛するひとたちを、自分の手で幸せにすることはできないのよ?」
    ドロシーはランドルフを見つめていたし、彼も彼女に目を向けた。
    しばらくお互いの瞳を覗き込んでいた。そこから逃げたのはランドルフが先だった。長い溜息が彼の口から漏れて、唇の端が上がる。
    「君は本当にひどい」
    「ごめんなさい」
    「けど僕も君にとっては残酷だろうから、お互い様だろうね。……これは嘘ではないよ。——僕はそれで構わない」
    その言葉の何が残酷なのか。彼が何を語ったのか。
    理解はゆっくり進むのに、胸の痛みは一瞬だった。彼の言葉にドロシーは傷ついた。
    「え?」
    「彼らが幸福なら、そこに僕という存在が介在しなくてもいい」
    何にどうして自分の胸が痛んだのか、傷ついたのか、わからなくて発した声に、ランドルフは残酷な追い打ちをかける。
    「それは、……それって。そんなの」
    ——もう愛じゃない。
    続けるにはドロシーには勇気が足りない。けれど呑み込まれた言葉はランドルフの耳にしっかりと届いていた。
    彼は微笑む。
    「だけどどうしてかな。確かに楽ではあるけど、君にはこうはなって欲しくはないんだ」
    曖昧な自身の感情を嗤うように、でもそれで良いのかわからないと惑って、ただ微笑む彼はきっと、とても優しい人間だ。
    けれど多分、彼は誰も愛していない。愛せない。
    (なのに私は、彼のことが——)
    好きだ。
    ドロシーは一度だけ彼を見て、視線を倒木へ逸らした。
    (どうしよう。どうしてこうなるの?)
    出会ってまだ数日だ。
    これじゃあ身体で絆されたと言われてもしかたない。気持ちを知られたら、きっとそう思われてしまう。
    (そんなのいや)
    ぱしゃん、と水音が跳ねた。驚いて顔を上げたけどそこに人影はない。動物の仕業か、石でも転がり落ちたのか。
    ランドルフはドロシーの一歩前に立って、いつでも動けるように注意を払っている。
    彼はきっと本気で、ドロシーを守るためなら死ねるのだろう。
    それはドロシーが王になるからだ。ドロシーを王位に即けたいから。ドロシー個人が彼の特別だからじゃない。
    彼はエルリアという国を前にすれば、ドロシーの気持ちだって簡単に無視できる。
    だけどドロシーが彼に特別な気持ちを抱いていると知れば、きっと負担にもなるだろう。それくらい優しい。
    (気持ちは、隠してしまえばいい。そして——)
    何事もないと確認できたようで、彼の身体から力が抜けた。ドロシーはそれを待って、彼の服の裾を引いて無言で呼びかける。
    (——彼を、王座の一番近くに置いてあげよう)
    彼に見合う役職がないなら、新しく作ってしまえばいい。これまで通り国民に尽くせるように。この国に必要なのは名目上の女王であって、ドロシー自身ではないのだから。
    ドロシーは振り返ったランドルフの唇に、己の唇でそっと触れる。
    「あなたをもらってあげる」
    真っ青な瞳が目前で揺れた。戸惑いと喜びと不審と驚きと、他にも色々な感情が彼の目を過ぎった。これだけ感情豊かな人を指して自分がないなんて、きっと誰も言わないだろうに。
    「私が女王になって、あなたを幸せにしてあげ——……ランドルフ?」
    両手で顔をすくい上げられた。
    見つめ合ったまま、その顔が降りてくる。見られている。鼻が触れあうほどの距離まで耐えたが、それ以上は無理だった。
    閉じたまぶたの裏に、深く陰った青が残っている。
    触れるだけでは終わらないとわかっていた。優しく唇を食まれて、そっと開いた口の中に彼が忍んでくる。
    そっと軽く中を探るだけだった舌は、ドロシーの反応を見てすぐに激しく這い回った。舌を絡め、吸われて、彼に差し出した舌には軽く歯が立てられる。ぞっと走ったのは多分快感だった。
    長い口づけが終わった後も、ふらつく身体を優しく抱きかかえてくれた。
    「こんなこと、する必要ないのに……」
    「ドロシー?」
    彼のことが好きだけど、快感に流されたんじゃない。
    彼は幸せになるべきだと思う。けれどそれだって、ドロシーが彼に恋しているからじゃない。
    でもきっと誰も信じないだろう。どれだけ口で説明したって。だってこんな風に、ご褒美みたいに与えられるキスでも嬉しい。
    きっとそんな浅ましさも、ランドルフにはお見通しなのだ。
    ドロシーは訝しむ彼に笑顔を浮かべて誤魔化した。

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