-
あらすじ
極上のシンデレラストーリー!
「残念だが子供ができるまでは耐えてもらわなければならない」“氷の伯爵”と呼ばれるダレンヴィル卿の花嫁の条件は《歯が丈夫で腰が大きいこと》。孤児であるタリーは思いがけない求婚にとまどうが、拒否することは許されなかった。イタリアへの蜜月旅行中、夜ごと愛されて変わっていく身体。いつしか彼を愛していると気付いてしまったタリーは!?
-
試し読み
タリーは蜂蜜の入った壺に手を伸ばし、スプーンですくってパンにかけた。
「ゆうべはよくお休みになれなかったのですか? 私はぐっすり眠ってしまいました。寒くて目が覚めたんですけれど」
彼女は少し赤くなって目をそらした。
「ミセス・ファローが服を脱がせてくれたんですね。でも、どうしてナイトドレスが見つからなかったのかしら。旅行鞄のいちばん上に入れてあったのに。」
朝、目が覚めたとき、彼女は何も身につけていなかった。隣のベッドの伯爵が目覚める前に服を着られたから良かったが、そうでなければ悲鳴をあげていたかもしれない。
(伯爵はどうしていたのかしら……きっと彼も疲れて眠ってしまっていたのね)
そうでなければ、タリーは強引に起こされていたに違いない。
初夜が先送りになったことに、彼女は少なからずほっとしていた。
マグナスはむっつりしたまま暖炉に歩いていくと、燃えている薪をブーツで蹴飛ばした。もうもうと煙が上がった。
「伯爵様?」
「伯爵様はやめてくれ」
彼は不意に尖った声を出した。
「君は私の妻だ。これからはマグナスと呼びたまえ。私はタレイアと呼ぶ。いいな?」
タリーは躊躇いがちに言った。
「タレイアはやめてくださいませんか?」
伯爵は眉をひそめた。
「他になんと呼べばいいのだ? レディ・ダレンヴィルか?」
「いいえ。学校の友だちやレティシアの子供たちはタリーと呼んでくれました。そう呼んでください。もしよろしければ」
「タリー……タリー」
彼は考え深げに言ってうなずいた。
「それでいい。これからは私をマグナスと呼びたまえ。私は君をタリーと呼ぶことにする」
「わかりました、伯爵、いえ、マグナス様」
タリーは自分の手が、マグナスの手に包み込まれているのに気付いて、頬を染めて微笑んだ。
マグナスはそんな彼女をどう思ったのか、彼女の手をさらに強く握り締めた。
「ではタリー、三十分以内に発つぞ」
「どこへですか?」
「パリへだ!」「マグナス様、この匂いは何ですか?」
タリーは馬車の窓から呼びかけた。馬車は険しい谷に差しかかり、馬は並足に速度を落としていた。マグナスも出立してから数時間ぶりに会話ができる距離にまで近付いてきた。
マグナスは顔をしかめ、匂いを吸い込んで頭を振った。
「何も匂わないが?」
「匂います。これは……これは……なんと言ったらいいんでしょう。こんな匂いは嗅いだことがありません」
タリーは、もう一度深く息を吸い込んだ。
「ぴりっとしていて ……とてもすがすがしい匂いです」
マグナスは匂いを嗅いで再び頭を振った。
「やはり何も匂わない。海は他の匂いをかき消してしまうからな」
タリーは目を見張った。
「海! これが海の匂いなんですか? 私、一度も海を見たことがなくて。前から一度見てみたいと思っていたんです」
彼女は馬車の座席の上で跳びはねて、窓から思いきり首を伸ばした。
マグナスは何やら考え込むような顔をしてタリーを見つめた。
タリーは息を弾ませて問うた。
「マグナス様、教えてください。海はどちらの方角なんですか?」
「まだ見えない。だが、この丘を越えれば視界に入ってくる」
タリーは近付きつつある水平線に目を凝らした。もうじき、緑の谷間に青くきらめく海が見えるはずだ。
次の四十分間、タリーの視線はずっと水平線に注がれていた。
時折、彼女を焦らすかのように青や銀色に輝く水面がちらりとその姿をのぞかせた。
馬車が最後の丘の頂上にさしかかると、眼前にイギリス海峡の青い海原が広がっていた。
「ああ、これが、海なのね」
喜ぶタリーを見て、マグナスは御者に止まるように合図した。彼は馬を降りて、タリーのために馬車のドアを開け、手を差し伸べた。
「降りて、心ゆくまで眺めるといい」
タリーは目を輝かせて馬車を降りた。勢いあまってつまずきそうになりながら小高い丘を駆け上がり、生まれて初めて見る景色に見とれる。
「これは本当の海とはいいがたい、英国と大陸の間にある海峡だ」
マグナスが言うと、タリーは驚いたように振り向いた。
「本当ですか? こんなに広いのに? 向こう側が何も見えないわ」
「それはそうだが……」
タリーは水平線に向き直り、しばらく黙って海を見つめていた。
「イギリス海峡……」
胸の前で手を組んでうっとりつぶやく。
「地図で見るよりもはるかに大きく感じられます。この向こうが大陸なんですね」
タリーは、伯爵に微笑んだ。
「見せてくださって、ありがとうございます。マグナス様」
彼は何も言わなかったが、瞳は冷たくなかった。タリーは胸が高鳴るのを感じた。港町ドーバーは人で溢れかえっていた。ここ数日風がなくて船が出航できず、それこそ町じゅうの宿はフランスに向かう客でどこもいっぱいだということだった。
マグナスは窓口で、宿の主人と交渉していたが、憮然とした顔で戻ってきた。
「君はミセス・エントホイッスルというご夫人と相部屋になってもらわなくてはならない。私も男性のグループの部屋で眠る」
タリーは明るく笑った。
「わかりました。平気です。寄宿学校は四人部屋でしたから」
ミセス・エントホイッスルは金持ちの未亡人で、おしゃべりだが、気の良い夫人だった。
数時間で、タリーはすっかり彼女と打ち解けた。
「本当にハンサムな旦那様ね」
ミセス・ホイッスルはしきりにマグナスを褒めあげた。
「しかも、とても上品で、礼儀正しいわ」
意外なことにマグナスは内心はどうあれ、夫人に対しても紳士らしく丁寧で優しく振る舞っていた。レティシアの屋敷で冷ややかな態度ばかりとっていたのは、結婚目当ての令嬢に対してのみらしい。
(それに、優しいところもあるわ……)
タリーは彼が海を見せてくれたことを思い出した。無知だと笑われるのではないかと思ったが、そんなこともなかった。
(どうして〝氷の伯爵〟なんて呼ばれているのかしら)
勿論、尊大で怖いときもあるが、レティシアの友人の貴族達には、平民に対してもっとひどい振舞いをする者は沢山いた。
それに比べると伯爵はずいぶん公平で誠実な人のように見える。
タリーは彼のことが、前ほど嫌ではなくなっていた。しかし、翌朝、宿の食堂に姿を現したマグナスは、不機嫌そのものだった。
「おはようございます。ゆうべはよくお休みになれました?」
声をかけても、彼はうなずいただけで、腎臓入りのパイとベーコンとエールを注文した。
タリーは朝からにしんを食べていた。港だけあって新鮮でとても美味しい。
「またよく眠れたようだな」
マグナスは皮肉っぽく言った。
タリーは部屋をこっそり見まわしてから、身を乗り出して囁いた。
「それが全然。信じられないでしょうけれど、ミセス・エントホイッスルはいびきがすごいんです!」
伯爵は目を瞬かせた。表情には乏しいが面白がっているように見える。
「本当なんですってば」
彼の気持ちが上向いたらしいことに、タリーは勢いづいて言った。
「ものすごく大きないびきなんです。彼女は黙っていることができないみたいですね。眠っているあいだも」
マグナスは少し笑ったようだった。タリーは頬を染めた。
(笑うと目の青が少し明るくなるのね、とても綺麗……)
「……私と相部屋になった男もそうだった」
マグナスは先ほどより穏やかな調子でぼそりと言った。タリーは笑った。
「それなら私の気持ちもわかってもらえますね。夫人は良い人なんですけど……いっこうに止まる気配がなくて、どうしようかと思いました!」
タリーは、晴れやかな気持ちでにしんをフォークですくって食べた。朝食の後、マグナスは、タリーを連れてドーバーの町を見物に出かけた。
彼の小さな妻は、魚くさい浜がいたく気に入ったらしく、見るもの聞くものに、いちいち、歓声を上げては、あちらこちらと駆け回った。
二人で西の丘の灯台に登ると、タリーはそこからの眺めに感嘆し、しばらく言葉もなくじっとそこに佇んでいた。
(何もかもが計算違いだ……)
マグナスはとまどっていた。レティシアの屋敷にいたときより、タリーは子供っぽく、生き生きして見え、彼が知っているどんな女性とも違っていた。
彼女と過ごす時間が長くなるにつれ、彼は自分の欲望を意識せずにはいられなかった。
きっかけは最初の宿だ。
あの夜、椅子に座り込んだまま眠ってしまった彼女の服を脱がせてベッドに寝かせたのは彼だった。それは夫としての義務感からの行為だったが、家庭教師らしく堅苦しく地味な服の下に隠された白い裸身は、彼をひどく動揺させた。
ゆらめく蝋燭の光の下に滑らかな肌が照り映え、柔らかくすんなりした肢体は、息を呑むほど美しかった。
マグナスは何度か彼女を起こそうと試みたが、疲れていたのか彼女はぐっすりと寝込んでいて、諦めるしかなかった。
(本来なら、もうとっくの昔に、私のものにしているのに……)
それでも延期は一夜限りのことだと思ったのに、この退屈な町で足留めされたあげく、部屋は相部屋だ。
彼女は彼の妻で、自分には彼女を好きな時に好きなだけ抱く権利がある。その意識がちらつくと、彼女に触れたい欲求は余計に強くなっていた。
「マグナス様、白い鳥があんなに沢山群がっています。何かしら」
タリーは嬉しそうに、水平線を指さした。
「カモメだな。おそらく、あの下に魚の群れがいるのだろう。エサを狙っているのだ」
「そうなんですか」
タリーの髪はありきたりな茶色ではなく蜂蜜色のような優しい色をしていて、昼の光の中でもきらめいて見えた。
ここでは彼女は髪を結い上げず、ゆるく束ねるのみにしている。貴婦人らしくはないが、彼女のカールした髪が、風になびき、ふんわりと広がっているのは、見て心地よかった。
彼女が何か見つけると、琥珀色の瞳が甘く輝く。マグナスは、最近、気が付けば彼女を目で追っている自分にとまどっていた。
まるで初めて恋を知った少年のようだ。
貴族らしく割り切った遊びの経験なら少ない方ではなかった。けれど、こんな感情には慣れていない。
(不器量でもいい、妻にはしっかりしていて手の掛からない従順な者を望んでいたのに……)
マグナスが物思いにふけっている間にも、タリーは貝殻を耳に当てたり、柵をよじ登ったりしていた。一時もじっとしていない。
(そのうち、彼女には、レディとしての振る舞いを身につけてもらわなくては……)
そう思う一方で、溌剌としたタリーを、好ましいと思っている。
マグナスは、物憂げに目を伏せた。妻に欲望を抱くのは予想外のことだった。
そんなことはありえないし、またそんな男は愚かだと思っていた。
マグナスはどんな女性にも支配されるつもりはなかった。妻に対するこの激しい渇望は、しばらく女性から遠ざかっていたからにすぎない。
マグナスは早く風が吹き、出航できるようになることを祈った。
だが、イギリス海峡は相変わらず波ひとつなく穏やかだった。夫は不機嫌だったが、タリーは気にしなかった。彼が気難しいのは最初からわかっていたことだ。
それに、伯爵との結婚は想像していたほど悪いものではなかった。
マグナスは眉を顰めながら魚の内臓が捨てられた水たまりや生きた蟹の入った籠をよけて歩いていたが、タリーが楽しんでいると見ると何も言わずに付き合ってくれた。
伯爵の腕につかまって町を歩くのは素晴らしい気分だった。
(こんなに立派な男性が私の夫だなんて、いまだに信じられないわ)
彼の腕に手を置いたときに体が熱くなるのや、歩いているときにときどき体が触れるのも少しも嫌ではなかった。
マグナスはタリーを守るように道路側を歩き、柵をよじ登ったときには黙って手を貸してくれた。
もちろん、それは単に彼が礼儀正しいというだけなのかもしれない。伯爵はミセス・エントホイッスルに対しても同じようにするだろう。
勘違いしそうになるたび、タリーは愛されて結婚したのではないことを思い出した。
マグナスは跡継ぎを得るために、彼女を仕方なく新婚旅行に連れてきたにすぎないのだ。
タリーは自分を奮い立たせた。
(ドーバーは楽しい町よ、そんなことを気に病む以外にすることはたくさんあるわ)
今は新婚旅行を思う存分楽しみたかった。
船が出るのはまだ先のようだった。
タリーは毎朝こっそり宿を抜け出して浜に出かけた。
タリーは浜の暮らしに大いに興味を引かれた。漁師が節くれ立った手で器用に網を編むのを眺めたり、二本マストの帆船、一本マストの縦帆船、スクーナーと船の見分け方を教わったりした。
ある朝、タリーは仲良くなった船乗りに誘われて、彼の漕ぐ小船に乗って港に停泊している船を見に行った。タリーは船の内装が実に精巧にできていることに感心した。
見学を終え小船で岸に向かっていると、伯爵が激高した姿で立っているのが見えた。
船が岸に着くと、マグナスはタリーの腕を乱暴に掴んで岸に引き上げた。
「いったい何をしているんだ」
彼はタリーを引きずるようにして足早に浜を歩いていった。
「大きな船を見せてもらったんです」
タリーは息を切らしながら言った。
「とっても楽しかった――」
「付き添いも連れずに宿を抜け出すとはいったい何ごとだ?」
マグナスはタリーの腕を引っ張って叱りつけた。
「君は自分のしていることがわかっているのか? このあたりにはならず者やごろつきがうようよしているんだぞ」
タリーは思いがけない叱責にとまどった。
「でも……ここの人たちはみんな親切です」
タリーは微笑み、居酒屋の店先に座ってパイプを吹かしている老婆に手を振った。
「おはよう、ネル!」
老婆は口から離したパイプを上げて挨拶した。わずかに残る歯を見せてにっこり笑う。
「おはよう、ミズ・タリー」
マグナスはタリーの手を引き、彼女が小走りでなければついていけない勢いで宿屋に戻った。
「私の馬車を呼べ!」
彼は鋭く言った。
「どこでもいいから走ってくれ」
マグナスは回されてきた馬車に乗り込むなり御者に指示し、そのあとタリーにくどくどと説教を始めた。
タリーは目を伏せ、膝の上に手をのせておとなしく夫の話を聞いていた。
「あんな刺青をして耳に金の輪をつけたような男と一緒に知らない船に乗るとはいったい何ごとだ! どんな目に遭わされていたかわからない。攫われるか、最悪の場合、喉をかき切られていたかもしれないんだぞ」
タリーはぱっと顔を上げた。
「そんなことありません。ジャックはああ見えてきちんとした人です。イヤリングはジャマイカにいる奥さんにもらった――」
「あのボートでどこかに連れ去られていたかもしれない」
マグナスは革のクッションをこぶしで叩いた。
「薬を呑まされて、外国に白人奴隷として売り飛ばされていたかもしれない!」
タリーはまじまじと夫を見つめた。彼女も白人奴隷の話は聞いたことがあった。夜の女学校の寮では、そういう話をすることが好まれていたからだ。
(でも、そんなの無理よ。浜にいる誰もが私がどこに行ったか知っていたんですもの)
「風が吹いていないから船はどこにも行けません。だから、私たちはまだフランスに行けないんでしょう?」
マグナスは答えに詰まってタリーを睨んだ。
馬車はがたがた音をたてて走っていた。タリーは窓の外に目をやった。
すでに町を遠く離れ、緑の生け垣や木が飛ぶように車窓を過ぎていく。
タリーは夫である伯爵に目を戻した。
伯爵はしかめっ面をして窓の外を見ていた。タリーは溜息をついた。
(こんなに綺麗なのだからもう少し愛想よくすればいいのに……)
でも、フィッシャー先生の女学校で育ったので叱られるのには慣れていた。お説教が続いてもどうということはない。
タリーは再び退屈そうに溜息をついた。
マグナスはそんなタリーに、怒りをつのらせたようだった。
「あのいかがわしい男に船で襲われたらどうなっていたと思うんだ?」
「彼はそんなことをする人ではありません。それに自分の身は自分で守れます」
タリーは怒って言った。
「どうやって?」
「それは――」
タリーが言いかけると、マグナスはいきなり彼女に飛びかかって両腕を掴んだ。彼は乱暴に彼女を馬車の座席に押し倒すと、上にのしかかってきた。
「きゃっ……」
タリーは驚きに目を見開いて、抵抗した。
「二人きりになって、こんなことをされたらどうするんだ?」
マグナスはタリーの顔を食い入るように見つめながら、引き締まった体を押しつけた。
タリーは身を捩って逃れようとした。夫の顔は恐ろしいほど真剣だった。
青灰色の冷たい目が、じっと彼女を見つめている。間近に見る顔は、絵画でも見かけないほど整って美しかった。
タリーは肌に伯爵の温かい息がかかるのを感じた。伯爵はタリーの抵抗を無視して、片手で彼女の両手首を掴んで座席に縫いとめた。
彼は空いているほうの手でゆっくりタリーの胸を撫でた。優しく指の這う感触に、さざなみのような快感が広がり、タリーは驚いて息を呑んだ。
(彼はいったい何をしようとしているの?)
男性は女性の体にいかがわしいことをするとフィッシャー先生から聞いてはいたけれど、いかがわしいことがどういうことなのかタリーは何もわかっていなかった。
こういう状況に置かれたときに、レディはどうすべきなのか心得てはいる。だが自分がそうしたいのかどうかはわからなかった。
マグナスに触れられているととても気持ちがよくてやめてほしくない。
「……ふっ」
温かい大きな手に胸をまさぐられ、凝った先端を摘まみ上げられて、タリーの体は喜びに打ち震えた。胸から始まった快感が徐々に下へ下へと広がっていく。
未知の感覚にとまどって、タリーは救いを求めるように夫の顔を見上げた。
「どうするんだ マダム?」
彼はくぐもった声でつぶやくと、タリーの唇を唇でふさいだ。
タリーは目を閉じた。
(これが二度目のキス……)
それは結婚式のときの、冷たく儀礼的なものとは何もかもが違っていた。彼の熱情を感じる。そして自分も、今は彼のことを好ましく思っている。
強く押し当てられた唇が、ゆっくりと彼女の唇を探索し始めた。マグナスの唇の柔らかく温かい感触に彼女はうっとりした。
彼は唇を押し当てているだけではなかった。彼女の唇をそっと噛んだり、吸ったり……舌でなぞったりしている。タリーは喜びに身を震わせて、彼に体を押しつけた。
上に覆いかぶさっている彼の体は恐ろしく重いはずなのに、その重みでさえ不思議と心地よく感じられる。マグナスは彼女の唇のあいだに舌を滑り込ませた。
もう一方の手が、痛いくらいに敏感になった先端を探るようにして押しつぶす。
タリーは体がとろけそうになり、同時に張り詰めたものが沸き起こるのを感じた。
マグナスはタリーの唇の中をゆっくり探り、舌と舌を絡ませた。
(あっ……)
喜びが全身を駆け抜け、タリーは恍惚に身を震わせた。口の中を舌が生き物のように動き回る。強く吸い上げられ、歯列をなぞられると経験したことのない快感が、体に満ちていった。
彼は腿で彼女を押さえつけ、舌の動きに合わせてゆっくりと焦らすように体を押しつけてきた。けだるさと興奮と不安が入り交じる。
ふと気づくと、彼の手は胸を離れていた。その手は靴下の上からタリーの脚を撫で、膝を過ぎ……素肌に触れた。手はさらに上へと動き、タリーは身をよじって逃れようとしながらも、無性にその手に体を押しつけたくなった。
マグナスは唇と舌で彼女のまぶたをなぞり、首筋に鼻をすり寄せ、腿に温かく力強い指を這わせた。タリーは震えながら導かれるまま両脚を開いた。
彼の手がさらに上へと動いて脚の間へとたどりつく。指が下着越しにふっくらとした恥丘の谷間を何度もゆっくりとなぞった。
(な、に? そんな、ところ……)
じわりと体の奥が熱くなり、そこが潤んでくるのを感じる。指は溝の上を中心に、円を描くように動いた。
(あ、あ、そこ……)
未知の感覚にタリーは震えた。いけないことをしているのだと思う、けれど、止めたくない。 溝の上のあたりに、ほんの少し触れられただけで飛び上がりそうになるような箇所がある。マグナスの指が探るようにそこに近づいてきて、強く押し付けられる。
(だ、め……よ)
心の中でも、否定の言葉を連ねるが体は続きを望んでいた。もっとそこを撫でてほしい。強く弄ってほしい。いっそ、二人を隔てている布を取り払って、そして……。
突然、馬車ががくんと揺れ、タリーは自分が何をしているかに気づいた。
夫の手がどこにあるのかも。
タリーはショックに身をこわばらせた。
(これがいかがわしい行為なんだわ!)
タリーはフィッシャー先生の教えを思い出した。
「ああ……」
タリーは大きな声でうめき、座席のクッションの上にぐったりと横になった。
「タリー? どうした?」
マグナスは唇を離し、力を失った彼女を見て動揺したようだった。
「タリー、大丈夫か?」
マグナスはタリーの手を取って狂ったようにさすった。
マグナスは体を起こして両手で髪をかき上げた。
「水をもらってくる」
彼は御者に止まるように言い、馬車の速度が落ちると、勢いよくドアを開けた。
いつになく動揺した彼の様子に、タリーはたまらなくなって、笑い声をたてた。
マグナスが愕然とした顔で振り返る。
「私を騙したのか!」
タリーが起き上がると、マグナスは低く言った。
タリーはマグナスに向かって微笑み、手が震えているのを気づかれないように慎重にスカートのしわを伸ばした。
(キスがあんなに素敵なものだとは思わなかったけれど、それを知られるのは、はしたないことよね……?)
「ごめんなさい……そんなに慌てるとは思わなくて」
タリーは素直に謝罪した。
「でもあなたもよくないです。私を脅かそうとするにしても、あんな……」
タリーは赤くなった。
「馬車の中で、あんな淫らなことをするなんて」
マグナスも少し悪いと思っているのか、決まり悪そうな顔をした。
タリーは続けていった。
「私ももう少し、気をつけます。けれど、男性によくない行為をされそうになったときには今のように気絶した振りをします。彼が動転しているあいだに逃げるんです。学校でフィッシャー先生にこれはとても大切なことだからよく覚えておくようにと言われていて」
タリーはこっそり打ち明けるように言った。
「実際にそうしなければならない状況に追い込まれたのは初めてですけれど、初めてにしてはうまい演技だったと思いませんか?」
マグナスはむっつりと黙り込んで、返事をしなかった。タリーは黙って彼の隣に寄り添った。船が出航したのは、それから二日後のことだった。
「うう……もう、だめ。もう、やめて」
タリーはうめいた。
(こんなことってある? 私は海が大好きだったのに)
タリーは悲しみ嘆いた。
(船と海に裏切られた気分よ……)
「大丈夫か」
マグナスは灰色の海のような色をした瞳を心配そうに曇らせて、タリーの顔をのぞき込んだ。 タリーは彼の胸に寄り添い、船の揺れに合わせて左右に大きく揺れるランタンを見ないように再び目を閉じた。
温かくたくましい手に抱き寄せられ溜息をもらす。しかし次の瞬間、軽々と抱き上げられるのを感じ、タリーは驚いて目を開けた。
「大丈夫だ。甲板に行くだけだ」
タリーが怖がって首にしがみついてくると、マグナスは囁いた。
「いや、やめて」
「大丈夫だ。風に当たれば気分もよくなる」
マグナスはそう言うと、タリーを狭く暗い船室から連れ出した。
タリーは揺れの激しい甲板に出たら死んでしまうと思ったが、抵抗する気にもなれないほど惨めで疲れ果てていた。
(航海がこういうものだって、どうして誰も教えてくれなかったのかしら)
船が大きく傾き、ぎいっと不気味な音をたててきしんだ。
タリーは夫にしがみつき、そのぬくもりと強さに安らぎを見出そうとした。
嵐でもうじき船が沈むかもしれないというのに、彼は平然としている。
甲板に出ると、風は身を切るように冷たかった。
マグナスはタリーを抱きかかえて手すりに向かい、座る場所を見つけた。
タリーのじっとり湿った肌に波しぶきがかかり、マグナスはハンカチーフで彼女の顔を拭った。強い風が彼女の髪やスカートの裾をはためかせる。
マグナスは彼女の髪を撫でつけて、毛布でくるんでくれた。
「気分がよくなっただろう?」
しばらくしてから、マグナスはたずねた。
タリーはぶるっと身を震わせて、夫の胸に頭をつけた。風に当たって頭はすっきりしたけれど、胃はまだむかむかしている。
「航海には申し分のない天気だ」
マグナスは言った。
タリーは信じられずに彼を見上げた。
(申し分のない天気ですって? 嵐みたいに風が吹いているのに?)
タリーは大きな波が船の横腹に当たって白く砕けるのを見てぞっとした。
「船長の話によると、この風のおかげで五時間もかからずにフランスに着くそうだ」
マグナスはタリーをちらりと見て、かすかに微笑んだ。
「あと二時間足らずだ」
「二時間……」
うめくタリーにマグナスは笑ってみせた。
「これを飲めば胃が落ち着くだろう」
マグナスは銀製の平たい携帯用の酒瓶の蓋を開け、タリーの唇に持っていった。
「いらないわ」
タリーはつぶやいて顔をそむけた。もう何も口に入れたくなかった。
「大丈夫だ」
マグナスは酒瓶に口をつけると、強引に彼女に口付け、唇をこじあけるようにして彼女の喉に中身を流し込んだ。
(あ……)
温かい唇の感触にうっとりした刹那、焼けるように熱い液体が喉元を通り過ぎて空っぽの胃に入り、タリーは身を震わせて激しく咳き込んだ。
「な、何なの?」
「ブランデーだ」
タリーはマグナスの胸にもたれて目を閉じ、静かに死を待った。だが、しばらくすると、体が温まって吐き気がおさまった。
タリーはマグナスの首筋に顔を埋め、彼のつけているコロンの香りにほっとするのを感じた。
(彼はとても親切だわ……)
タリーはうとうとしながら思った。
ダレンヴィル卿がこれほど思いやりに溢れているとは誰が想像しただろう。船酔いになった彼女を見て嫌な顔をするものとばかり思っていた彼は、甲斐甲斐しく介抱してくれた。
タリーは思わず泣き出しそうになった。
今まで彼女のことを気にかけてくれる人はいなかった。
レティシアの屋敷で病気で寝込んだときは、使用人の何人かは心配してくれたが、それぞれ仕事で忙しく、彼女は一人寂しく寝ているしかなかった。
彼女が休む事で仕事が増えた人に嫌みを言われたこともある。
それが今、世間では氷の伯爵と呼ばれている人が、彼女を気遣ってくれていた。
タリーの胸は張り裂けそうだった。
(氷の伯爵だなんて! 彼は冷たい人などではない。彼は……)
「とても優しいんですね」
タリーはマグナスの肌に唇を当てたままつぶやいた。熱い涙がまぶたにこみ上げた。(私が優しい……?)
マグナスは耳を疑った。誰かに優しいなどと言われたことはただの一度もなかった。
マグナスはタリーを強く抱きしめ、彼女の心地よい重みと、柔らかい頬を感じた。彼の知っている女性のほとんどはきつい香水をつけていたが、彼女からは石鹸と海の匂いがした。
(かわいそうに。旅が初めてなら、船酔いはさぞかしこたえただろう……)
船が出航したとき、タリーは興奮に目を輝かせていた。ところが、三十分もたたないうちに真っ青な顔をして震えだしていた。
彼女を介抱したのは優しさからではない。そうするしかなかったのだ。他に誰もいない状況で、彼女は私の妻だった。妻の面倒をみるのは夫の義務だ。
マグナスは彼女が腕のなかで静かに寝息をたてて眠っているのに気づいた。
(私の妻……)
マグナスは波を見つめた。顔に吹きつける塩辛い波しぶきが心地よく感じられる。
彼はタリーを寒さから守るために、毛布を引っ張り上げて小さな身体をくるみ直した。
結婚は彼が想像していたものとはまるで違っていた。
彼は子供のことしか考えていなかった。妻は健康で、手がかからなければそれでいいと思っていたのだ。彼は心の中でそんな自分を笑った。
(この娘なら世話を焼かずにすむと考えたはずが……)
レティシアの選んだ候補者のひとりと結婚していたら、新婚旅行はブライトンかバースか、あるいは田舎の領地あたりで簡単にすませていただろう。
ロンドンで社交シーズンが始まるころに妻が妊娠し、田舎の領地で出産を待つ。子供が生まれたあとはロンドンに戻り、社交界の慣習に従ってそれぞれの暮らしを楽しむのだ。
だが、マグナスは自分の義務を心得た洗練された女性を選ぶ代わりに、タリーを選んでしまい、その結果、彼の人生は大混乱に陥った。
マグナスは彼女がどれだけ孤独か気づいていなかった。
彼女には身の回りの世話をする侍女すらいなかった。レティシアの侍女のひとりがついてくるだろうと思い、何の手配もしていなかったが、レティシアに拒まれたのだ。
レティシアの嫌がらせと彼自身の不注意で、マグナスは妻のために侍女と従僕と看護人と保護者の何役をもこなすはめになった。
まだ夫としての務めも果たしていないというのに。
相部屋に寝かされ、魚くさい浜を歩かされたうえに、妻は刺青をした荒くれ者の船乗りと仲よくなるは、いまだに初夜はすんでいないはで、彼は大いに不機嫌だった。
(それにもかかわらず、彼女は私を優しいと言った……)
自分が優しくなどないことは、マグナス自身がいちばんよくわかっていた。
彼は父親から、先祖代々受け継いだ領地や家名を守り、自分に依存している者たちを守る義務があることを厳しく教え込まれた。
タリーは他の誰よりも彼の庇護を必要としているように見えた。それだけだ。
(優しいだって? 彼女は貴族の精神を理解していないだけだ)
考えながらも、マグナスは腕の中の体を強く抱きしめていた。船がカレーに着いたころには、タリーの船酔いは完全におさまっていた。
「ここがフランスなんですね!」
乾いた地面を踏みしめるごとにタリーは元気を取り戻していった。
初めて訪れた外国は見るもの聞くものすべてが珍しく、匂いですら新鮮に感じられた。
(ほんの少し前に革命と戦争があって、貴族のほとんどが殺害されたなんて嘘みたい……)
タリーは自分が結婚して貴族となったことを思い出して、少し怖くなった。
彼女は夫に寄り添うようにして歩き、夫の存在を心強く感じた。
道をゆく男性の多くは黒いひげをたくわえ、耳には金のイヤリングをして、三色旗の色である、赤や青や白の花形帽章をピンで留めた三角帽をかぶっていた。
途中行進している兵士とすれ違ったが、太い口ひげを生やし、いかにも軍人らしく颯爽としていた。
売り子はおしゃれで、きらきら光る十字架やネックレスやイヤリングを身に着け、糊のきいた白い帽子をちょこんと頭にのせていた。
タリーは周囲で飛び交うフランス語を聞いて眉を寄せた。
(学校で教わったのとは違うわ……単語がところどころ聞き取れるだけ……)
タリーは人々が陽気で親しみやすいのに驚かされた。
イギリスとフランスの間でアミアンの平和条約が結ばれてからほぼ一年たち、だいぶ落ち着いてきたようだ。英国貴族はあまり歓迎されないのではないかと思ったが、リオン・ダルジャンの主人は恭しくお辞儀をしてにこやかに微笑み、伯爵夫妻を心から歓迎してくれた。
「あまりおなかが空いていないんです」
食堂に入ったとたん、タリーはそう言ったが、マグナスは首を振った。
「温かいものを食べたほうが気分がよくなる」
彼は痩せた、いかにも陰気そうなギャルソンを呼んで、コーヒーと卵とステーキと、エールを二人分注文した。
ギャルソンはフランス人らしく肩をすくめて、ここはイギリスではない、まともなフランス人はエールを飲んだりしないと指摘した。マグナスはそれに対抗して、何も言わずにイギリス人らしく肩をすくめた。
タリーはギャルソンが出ていくのを待って小さく抗議した。
「何も食べたくありません。おなかが空いていないんです」
「何を言っている。黙って食べなさい」
ギャルソンがすぐに戻ってきて、タリーの前にポーチドエッグを置いた。
マグナスは大きなステーキをレアで食べていた。タリーは彼を反抗的な目つきで見て、ポーチドエッグを脇に押しやった。
窓の外では、ぼろをまとった二人の男が、オルガンとタンバリンで共和国の歌を演奏していた。
マグナスはギャルソンに合図した。ほどなくしていい香りのする淹れ立てのコーヒーとロールパンが運ばれてきた。
タリーはマグナスがロールパンをちぎるのを見つめた。こんがりきつね色に焼けた皮からうっすらと湯気が立ち上り、たまらなく美味しそうな匂いがした。
マグナスはちぎったパンにバターを塗ると、いきなりタリーの口のなかに放り込んだ。
タリーは仕方なくパンを噛んで呑み込んだ。美味しかった。
次に、コーヒーをひと口飲んでみた。コーヒーの味がまた格別だった。
パンをかじり、コーヒーを飲み干して、ふと顔を上げると、夫が物問いたげな顔をしてこちらを見ていた。タリーは微笑んだ。
「とても美味しいわ。気分がよくなりました」
マグナスは満足気にうなずいた。
「船酔いのあとは食べるのが一番だ。卵も食べたらどうだ?」
「いいえ、ロールパンとコーヒーだけで十分です。イギリスのコーヒーとは違うんですね。あと……よければお風呂に入って着替えたいのですが」
「かまわないが急いでくれ。今夜はここには泊まらない」
マグナスは言った。タリーは驚いて顔を上げた。
「船では快適に過ごせたが、この町もじきにドーバーのように混雑してくる。相部屋はもうたくさんだ。できるだけ早くパリに向けて発ちたい」
彼は言った。
「今夜はブローニュで一泊する。ここから数時間行ったところだ。今夜こそ、ちゃんとした宿でゆっくり休めるだろう」
タリーはうなずいてナプキンで口元を拭った。
「わかりました。入浴は夜、宿に着いてからにします」
マグナスは妙に熱っぽい目でタリーを見つめ、再び料理に目を戻した。
「御者のジョン・ブラックが四輪馬車と馬を調達してきたら、すぐに出発する」借りた馬車にはかすかにたまねぎの匂いが残っていたが、タリーは気にしなかった。
彼女はカレーからブローニュに至る道中をずっと外を眺めていた。
「農場や畑はどこの国でも同じだと思っていましたけれど、違うんですね。人までどこか違って見えます」
マグナスはろくに聞いてもいないのに調子を合わせうなずき、車窓の風景に夢中になっている妻を観察した。
どんな小さなことにも喜びを見出せる彼女を好ましく思う。
レティシアの選んだ令嬢と結婚していたら、彼が妻を楽しませなければならなかっただろう。 タリーには退屈させられるということがなかった。
ブローニュに着いたころには、英仏海峡は午後も遅い日差しを浴びてきらきら輝いていた。 リオン・ダルジャンの主人が勧めてくれた宿を見つけ、マグナスはひと続きの部屋を取り、早めに夕食にするように申しつけると、散歩に出かけた。
そのあいだ、タリーはひと足先に部屋に入り、ふかふかのベッドにごろりと横になって、羽毛の掛け布団にもぐり込んだ。
使い慣れたウールの毛布に比べて軽くて心もとない気がしたが、十分に温かかった。
フランスに着いて最初の日。何もかもが刺激的で楽しかった。
マグナスは夕食の前にタリーを街に散歩に連れていってくれた。フランス料理は素晴らしいとは聞いてはいたが、その味は噂にたがわぬものだった。
タリーは溜息をもらして、ベッドサイドに置かれた蝋燭の火を吹き消そうとした。すると、ドアをノックする音がした。
彼女はベッドの上に起き上がり、上掛けで胸を押さえた。夫の声がした。
「どうぞ」
マグナスは部屋に入ってくると、ドアを閉めて鍵をかけた。
「何かご用ですか?」
マグナスは一瞬、謎めいた表情を浮かべてタリーを見下ろした。
「ここは私の部屋でもある」
タリーは目をぱちくりさせた。
「でも……ベッドはひとつしかありませんわ」
「私たちは結婚したんだぞ? 夫婦は同じベッドで眠るものだ」
タリーは驚いた。
レティシアは自分のベッドで寝ていたし、客が夫婦揃って訪れた際にはそれぞれ別の部屋を用意した。客が大勢来たときだけ、仕方なく同じ部屋を使ってもらったけれど。
(きっとこの宿も混んでいるのね)
「着替えてくる」
マグナスは化粧室に入ってドアを閉めた。
タリーはベッドの上に起き上がったまま途方に暮れた。マグナスはドーバーの馬車のなかでいきなりキスしてきたときと同じ目をしていた。
タリーはあれからあのキスのことを何度も考えた。
(普通はキスをするときに舌を入れたりしない。ああすれば赤ちゃんができるのかしら?)
嫌ではなかった。キスは素晴らしかった。レティシアの話と違って、怖くも痛くもなかった。
(けれど、それだけじゃない……)
キスされながら、胸や……他のところも触られた。馬車の中では、とてもいけないことをしているような気がしたけれど、あれが……初夜の夫婦の間で起こることなら。
(私、嫌ではないわ……)
化粧室のドアが開いてマグナスが出てきた。絹のドレッシングガウンを着て、帯を締めている。彼はベッドに近づいてくると囁いた。
「向こうに寄ってくれないか」
タリーはベッドの片側に寄った。マグナスはベッドの端に腰を下ろしてゆっくりと帯をほどいた。そのあいだ、彼の視線はじっとタリーに注がれていた。
マグナスがドレッシングガウンを脱ぐと、タリーは息を呑んで目をそらした。
彼はガウンの下に何も身に着けていなかった。
タリーは赤くなってマグナスをちらりと盗み見た。彼女は成人した男性の裸を見たことは一度もない。男性は女性とは明らかに違っていた。そして夫は、風呂に入れるときに見た小さなダニエルともまるで違っていた。
タリーは顔をそむけてベッドに横になり、目を閉じた。マグナスがベッドに入ると、彼の重みでマットレスが沈んだ。体と体が触れそうなほど近づいている。
何も着ていないから寒いはずなのに、彼の体は燃えるように熱くなっていた。
「……蝋燭の火を消してくださいますか?」
タリーは緊張しながら言った。
「いや、まだだ。今度は私が見る番だ」
耳元で低い声がした。
「あ、あなたが見る番?」
「そう、私の番だ。結婚した男女はそうすることになっている」
彼はタリーのナイトドレスのボタンをひとつ、ふたつとゆっくりはずし始めた。すべてのボタンがはずされたころには、タリーはぎゅっと目を閉じて震えていた。
「怖がることはない」
マグナスは囁いてタリーの頬を撫でた。彼はさらに近付いて、熱くほてった体をタリーの体にぴったり重ね合わせた。
彼は彼女の上にかがんで唇に軽く口づけ、優しく唇を動かしながら何度もキスを繰り返し、まぶたや頬にもキスの雨を降らせた。タリーはわずかに緊張が解けるのを感じた。
(大丈夫よ、彼はとても優しい……)
タリーは彼が海を見せてくれたことを思い出した。そして船の上でのことも思い出した。
彼の腕の中に包まれて涙が出るほど、切なく感じたことも。
(あれが、誰に対しても発揮される礼儀であっても、妻に対する義務であっても、私には特別だわ)
彼の両手がタリーの首筋から腕を撫で下ろして再び首筋に戻った。木綿のナイトドレスの上から胸に触れ、その手をそっと上下させる。
マグナスが手を動かすたびに、タリーの体に震えが走った。
キスが深まり、マグナスはタリーの首筋に舌を這わせると、再び彼女の唇にキスをした。
マグナスの唇は下へ下へと下りていき、タリーはナイトドレスの前を押し開けられるのを感じた。
マグナスの濡れた温かい唇が胸の谷間に下り、ナイトドレスは肩から脱がされた。一糸も纏わぬ姿になったタリーを、彼は燃えるような目で見つめた。
「……とてもきれいだ」
タリーは驚いて目を開けた。
(きれい? 彼は私をきれいと思っているの?)
マグナスは温かく力強い手でタリーの胸のふくらみを包み込み、親指で先端をなぞった。薔薇色のつぼみは固くなり、悦びが全身を走り抜けた。彼が先端を唇で咥えた。
「……っ!」
タリーは声が漏れそうになるのを必死で堪えた。
結婚式の前日の、レティシアの教えを思い出したのだ。『まずベッドでは何をされても夫に逆らわないこと。最初はそう……激痛に震えることになるでしょうけど、何も言わずに耐えるのが花嫁の義務よ。いいわね』
レティシアは扇で口元を覆った。
『慣れてくると、いろいろなことが起きるでしょうけど、決して反応しては駄目。手をシーツにつけて死体のようにじっとしているのよ。でないと一族の恥になるわ。声なんかあげようものなら一生、軽蔑されるでしょうよ。よく覚えておきなさい』マグナスはふと唇を離すと、あの青灰色の目でまたタリーを見た。
タリーは彼の視線に肌が燃えるように熱くなるのを感じた。両手で胸を覆い隠そうとすると、マグナスはその手を掴んで離させた。
「私は夫だ、タリー。私に隠す必要はない」
マグナスが再び胸に唇を押し当て、乳頭をちゅっと吸うと、タリーは快感に飛び上がりそうになった。
マグナスは低くつぶやいて、手と唇と舌で彼女を愛撫した。少し冷たい大きな手で、タリーの乳房をこねる。痛いくらいに勃ちあがった乳首に舌を絡められ、吸い上げられて、タリーは痙攣を起こしたように体を震わせた。
(こんなふうに感じさせるなんて彼はどんな魔法を使っているのだろう?)
彼女は、両手で彼の頭を抱えて胸に引き寄せたかった。でもそれは許されないことだ。代わりに目の前で揺れている髪に小さくキスをした。
マグナスがゆっくりと彼女に全身で覆い被さってくる。
彼の肌は温かく、うっすらと汗ばんでいた。いつもつけているコロンと、彼自身の麝香のような匂いがする。彼はこんなにも力強いのに、こんなにも優しくなれるのだ。
マグナスは両手で彼女のおなかと腰を撫で下ろした。少しざらざらした手のひらが柔らかい肌に心地よい摩擦を引き起こす。
手が腿のあいだに滑り込んでくると、タリーは体を震わせて無意識のうちに脚を開いた。
マグナスは彼女の脚のあいだを手のひらで包み込み、小さな円を描くように指を動かした。
タリーは思わず小さく声をもらした。
指は淡い茂みをかきわけ、秘裂をなぞる。慎ましやかな花弁に隠れた花芯を指で捉えられて、タリーは必死で声を殺して唇を噛んだ。
思わず閉じてしまいそうになる膝を、マグナスの手が開かせる。
(ああ……だめっ……!)
彼の指に捉えられたそこは、秘密の塊だった。自分の身体にそんな場所があるなんて全く知らなかった。
優しくなぞられているだけなのに、全身に快感が満ち、震えそうになる。
「濡れてきたな」
マグナスが低くつぶやいた。
不安げに見上げるタリーに気付いたのか、彼は言葉を重ねる。
「正常な反応だ。夫を受け入れるために女性はこうやって蜜を流すのだ。君は初めてだから……もっと濡れるといい」
タリーは少しだけ安心した。たしかに自分の中から、とろりと何かが溢れでていくのがわかった。マグナスは入り口で遊んでいた指を蜜に絡めて、そっと中に差し入れる。
彼の指が襞の奥に入ってきて、タリーは驚いて身をよじった。下腹の奥が熱くなる。
「入っているのが、わかるか」
タリーは小さくうなずいた。
マグナスは再び、タリーの胸を唇で愛撫しながら、慎重に指を動かしていく。内側を擦るようにしながら、指は奥を目指した。
「ふっ……」
タリーはぎゅっと目を閉じて、漏れ出そうになる声を抑えた。自分の身体がマグナスによって拓かれていくのがわかる。
さわられて、撫でられて、熱く柔らかくほころんでいく。
親指で花芯が捉えられたまま、指が二本に増やされた。くちゅりとちいさな水音がした。
指は狭い中を探りながら、ゆっくりと広げるようにしてタリーの中をかき回し、抜き差しを繰り返した。
熱い快楽が彼女の中に満ちていく。愛蜜が後から後から溢れだす。
「………っ」
タリーは必死でシーツを握りしめ、身体を捩った。
声を出したい。マグナスにしがみつきたい。初めて与えられる悦びを夫と分かち合いたかった。しかし、それは、許されないことなのだ。
タリーは世の中に、「ふしだら」「淫ら」と言われる女性達が多い理由を理解した気がした。きっと声をもらしたら、タリーもそう言われるのだ。
(でも、それを耐えるのは大変なことなのね……)
「柔らかくなってきたな……」
マグナスは濡れた声で囁き、いっそう激しく指を動かした。
淫唇が濡れた音をたててわずかに開き、ピンク色の花びらがちらりと見えた。
タリーの柔らかな蜜色の髪がシーツに散らばり、身体はひくひくと震えている。
白い肌は薄紅に染まり、瞼毛には涙の玉がひっかかっていた。
恐ろしく煽情的な眺めだった。
こくりと唾を呑み、マグナスは指を抜き取った。タリーの脚をさらに押し開いて、その間に膝をつき、熱い唇で彼女の唇をふさぐ。
ほころびた蜜口に、固いものが触れ、タリーは身をこわばらせた。それは今から何をするかを知らしめるように、ゆっくりと秘裂をなぞっていく。
マグナスは、タリーの目をのぞき込んだ。
「傷つけたくはないが、初めてだから少し痛いかもしれない」
マグナスはタリーの閉じがちになる膝を開いて折り曲げさせた。
つま先がシーツから離れ、腰が浮き上がる。指とは比べものにならない熱くて太いものが、入り口にぴったりと押しあてられた。
マグナスがタリーのすんなりした脚を両腕で抱え上げた。そのまま彼女の腰を引き寄せるようにして、のしかかり、突き入ってくる。
肉棒に身体の奥を押し広げられる感触と同時に、鋭い痛みが全身を貫いた。
「……っ……っ」
タリーは身をよじって逃げ出したくなったが、目をぎゅっとつぶってじっと耐えた。
口を大きく開き、空気を求めるようにして、声の出せない悲鳴をあげる。
マグナスは容赦なく身体を進めた。彼の猛々しく太いものが、容赦なく彼女の柔らかな場所を拓き、奥をこじ開けた。
(―――っ!)
「っつ……さすがに狭い……な」
マグナスは苦しそうにつぶやき、タリーは思わず息を呑んだ。
(彼も私と同じように痛みを感じているのかしら)
そう思うと、少しだけ力が抜けた。やがて、ぷちりとした衝撃が走り、痛みが少し軽くなった。マグナスの腰がタリーの内腿にあたる。
「全部、挿入った」
彼は囁いて、タリーの頬を撫でた。タリーはあえぎながら涙を流していた。
これが純潔を奪われるということなのだ。
彼女は身に纏うものもなく、脚を大きく開かされ、身体の中心に男性自身を呑み込まされていた。
タリーの胎内にマグナスが食い込み、身体全体で、彼の重さを感じさせられている。
押しつぶされそうな重みが、完璧に征服されたのだと、彼のものになったのだと感じさせた。
タリーは身を硬くしながら彼が離れるのを待った。だが、マグナスはそのまま出ていかず彼女のなかで動き始めた。
彼女の中にみっちりと埋まっていた塊が、途中まで引き抜かれたかと思うと、またゆっくりと中を穿ってくる。その動きが執拗に繰り返されていく。
「はっ………」
タリーは、喘ぐように息を吐き出すしかなかった。
腰の動きが、だんだん速くなってくると、こすられる内壁に、切ないような、ぞくぞくするような感覚が生まれてくる。
それが彼女の中の奥のある一点を擦ると、その感じは鋭く、強くなった。
「ふっ……ん……」
声を出せないのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
蜜と呼ばれたものが、またあそこから溢れてくる。マグナスが動く度それは攪拌され、ぐちゅぐちゅと、たまらない音が胎内から響いた。
「くっ……」
マグナスが小さく声を漏らした。タリーは瞳をあげて、自分にのしかかる彼の顔を見る。
彼女を見つめる青灰色の瞳は、濡れたような輝きを放っていつもと違う色あいに輝き、タリーは自分の身体が熱くなるのを感じた。
彼はタリーの腰を抱え直して、抽送をいっそう激しくした。
室内は荒い吐息と、身体を交わらせる淫猥な音だけで満ちていた。
何度も何度も、マグナスは腰を打ち付ける。
膨れ上がった陰茎で最奥を突き上げられるたびに、痛みとは違うものがこみ上げてきた。
「……んっ……」
再びキスで唇をふさがれ、タリーは彼が腰の動きに合わせて舌を動かしているのに気づいた。その舌と腰の動きは、彼女の体にさらなる悦びをもたらした。
もうあまり痛みはなかったが、張りつめたような感覚が耐えがたいまでに強くなり、タリーは身もだえた。
(あ…あ……こんなっ)
タリーは声をあげ、マグナスの背中に爪を立てたかったが、自分自身や彼の名誉を汚すようなことはしてはならないと自分に言い聞かせた。
これが私の夫なのだ。私はこれで本当の意味で彼の妻になった。これは夫が妻を身ごもらせるために行う行為だ。
タリーは、夫に抱きついて自分の体を強く押しつけたくてたまらなかった。でも、そうすることは許されていない。
タリーはそのとき初めて気づいた。
(私……私、彼を愛しているんだわ)
この行為は妻の義務かもしれないが、タリーはそれ以上のものを感じていた。
純潔を散らされて、有無を言わさず体を結ばされても、その相手が彼であることが嬉しいと思う。誰も来たことがないほど近くに彼が来ている。
体を寄せ合い、悦びをわかちあっている。
つらいのは、されていることではなく、その思いを表に出せないことだった。
タリーは愛していると叫んで彼にキスしたかったが、それは夫をおとしめる行為なのだ。
(彼に愛されなくてもいい。せめて誇りに思ってほしい……)
マグナスの動きがいよいよ激しくなり、タリーは何かが起ころうとしているような……波に押し流されるような感覚に襲われた。それでも、彼女はじっと耐えていた。
マグナスは獣のようなうめき声をあげて最後にもう一度腰を突き上げ、腰を震わせた。
タリーは温かいものが自分の中を濡らすのを感じた。
マグナスは、ゆっくりと腰を動かして、彼女の上にぐったりと覆いかぶさった。
二人はあえぎながらじっと横たわっていた。
タリーはマグナスがまだ中にいるのを感じた。もう不快感はなかった。彼女にのしかかったマグナスの体は重く、息をするのも苦しかったが、彼の力強さやぬくもりに包まれているのはとても心地よかった。
タリーはおずおずと手を上げて彼の髪に触れ、首の後ろと肩を撫でた。マグナスは溜息をもらして身を震わせると、彼女から離れた。
彼が出ていくのを感じて、タリーは一瞬喪失感に襲われた。蝋燭の火はまだ燃えていた。タリーはゆらゆら揺れる金色の光のなかで夫に見つめられているのを感じた。
マグナスはタリーの顔にかかる濡れた巻き毛を優しく払いのけた。
「大丈夫か?」
彼は囁いた。
タリーは夫の顔をまともに見ることができず、ただうなずいた。
マグナスはベッドから下りると、化粧室に入っていった。
タリーは夫の後ろ姿を見つめて思わず泣き出しそうになった。
彼は服を着て自分の部屋に戻ってしまうのだ
(私が彼を愛していても、彼は私のことを子供を産ませるための相手としか思っていないんだわ……)
彼が冷たいだけの人ではないのは、もうわかっていた。そうでなければ恋になど落ちない。 けれど彼はタリーを愛してはいないのだ。
今の行為は子供を作るためだけのものにすぎない。
だが、マグナスは裸のままタオルを手に持って戻ってきた。彼はベッドに戻ってくると、彼女の腿を開いて、その間を水で濡らしたタオルで拭き始めた。
タリーは恥ずかしさのあまり真っ赤になってやめさせようとしたが、マグナスは聞く耳を持たなかった。ようやく、彼は終えて立ち上がった。
タリーはタオルに血の跡がついているのを見てぎょっとした。
夫が再び化粧室に入っていくのを見ながら、タリーは思った。
エマリーン・ピアースの言っていたことは本当だったのだ。それなのに彼女は嘘つき呼ばわりされ、フィッシャー先生に厳しく罰せられた。
確かに血が流れ、レティシアの忠告がなかったら、タリーは悲鳴をあげていただろう。
マグナスは戻ってくると、ベッドに入り、二人の体を上掛けで覆った。
「さあ、眠ろう」
蝋燭の火を吹き消し、彼女のウエストに腕をまわして抱き寄せた。
たった今愛を交わし夫を愛しているとわかっていても、全裸でベッドにいるのは奇妙な感じがした。
「ナイトドレスを着てはダメですか?」
マグナスはタリーをさらに強く抱き寄せて腰を撫で、手のひらで胸のふくらみを包み込んだ。
「寒い思いはさせない。眠りなさい」
目を閉じると、すぐにマグナスの寝息が聞こえてきた。タリーは溜息をもらした。喜びなのか悲しみなのかわからない涙がひと粒、頬を伝って流れ落ちた。第三章
「三ヶ月もパリに……ですか?」
朝食の席でそう告げられ、驚くタリーにマグナスは落ち着いてうなずいた。
「もちろん、それまでに君が微妙な状態になれば別だが」
タリーは頬を染めた。〝微妙な状態〟が何を意味するのか、今はわかっていた。
マグナスの子供を宿しているかもしれないと思うと、胸の鼓動が速くなる。
でも、そうなると、なおさら急がなくてはならない。妊娠する前に何が何でもイタリアに行かなければ。
「でも三ヶ月は長すぎます。そんなに長くパリにいたら、冬になってしまって、アルプスを越えてイタリアに行くのを来年まで待たなければならなくなります」
「アルプスを越える?」
タリーはうなずいて、アプリコットのペストリーを口に運んだ。
「ええ。アルプス越えの話はいろいろ聞いています。私、どうしても行ってみたいんです。イタリアに……」
タリーの声はしだいに小さくなった。マグナスを意識して嫌われたくないと思うと、強引な主張を押し通すことが難しくなっていた。
けれども、ここで引くわけにはいかない。彼の妻として、これから一生を過ごすためにも、彼女はどうしてもイタリアへ行く必要があった。
あの夜から一週間がたとうとしている。
マグナスはあれから彼女のベッドを訪れず、あの夜のことは夢だったのではないかという気がしていた。彼は馬車の乗り降りに手を貸す以外にはタリーに触れようともしない。
話し方も前より堅苦しくなったように思えて、タリーは寂しさを感じていた。マグナスは彼女の顔にさまざまな表情がよぎるのを見て、再び眉を寄せた。
(どうしてこうも計画どおりにいかないのだろう……)
ブローニュで初夜をすませれば、欲望はおさまると思っていたが、かえって募る一方だった。毎晩でも彼女を抱いて、あの柔らかな体に身を沈めたかった。
指についた砂糖をなめている彼女を見て、マグナスは思春期の少年のように興奮を覚えた。
(余計なことは考えるな。彼女はあの晩が初めてだったのでまだ痛みが残っているはずだ。ベッドをともにするのはパリに着くまで待たなくては)
タリーの唇に砂糖の粒がついて光っているのに、マグナスは気づかない振りをした。
「明日パリに着く。早朝に宿を発つから今夜は早く休みなさい」
マグナスは素っ気なく言った。
タリーは夫のよそよそしい態度に涙が出そうになったが、素直に立ち上がり、掠れた声でお休みなさいと言って客間をあとにした。
「タリー」
タリーは階段の上で振り向いた。声には優しげな調子があって、彼女はかすかな期待を抱いた。
「君は、パリが気に入るだろう」
マグナスは戸口に立って、腕組みをして言った。
「最初にドレスと帽子を新調しよう。恐怖政治や戦争があってもなお、パリが流行の先端の街であることに変わりはない」
「……そうですね」
「絹やサテンやレースのドレスだ。昼のドレス、夜のドレス、金で買える最高のものを揃えよう。手袋に靴に香水。舞踏会に夜会もある。きっと楽しめるはずだ」
タリーは黙って夫を見下ろした。
「あなたがそうおっしゃるなら、きっと楽しいのでしょうね」
タリーは向き直って寝室に通じる階段を上っていった。マグナスは眉を上げた。
(何が不満だというのだ? これだから女はわからない)
マグナスは質素なドレスを着て、階段を上っていく妻を見送って部屋に戻った。
不器量でもいいから素直で従順な妻を求めていたはずが、彼女はそのどれにもあてはまらなかった。
不器量だって? 地味な色合いのドレスを着ていても彼女の魅力は隠しようがない。
マグナスはクラヴァットとシャツをはぎ取るように脱いで椅子に放った。
(服を買おうと言ったのに、嬉しそうな顔ひとつせずに部屋に下がってしまった)
マグナスは自分が少し失望していることに気付いて、余計腹立たしく思った。
今ごろ彼女は服を脱いで、ベッドに入る準備をしているだろう。
タリーのほっそりした体を思うと、マグナスは落ち着かない気分になった。
(もういいだろう。彼女は私の妻なのだ。パリに着くまで待つ必要はない)
マグナスはベッドの端に置いてあったドレッシングガウンを掴んで着ると、裸足のまま二人の寝室をへだてる廊下を横切り、ノックをするのも忘れていきなりドアを開けた。 -
関連作品