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試し読み
イケメンという人種は遠目で見ている分には構わないが、こうして笑顔で近寄られると、あの時の苦くて酸っぱい記憶が蘇るのである。
優しい笑顔の裏で、この人は何を考えているのか。訝しみながら、短く返事をすれば。
「ですが、すごくいいお顔をされていますね。きっと、今回のお仕事にも、やりがいを感じていらっしゃるのでしょうね」
温かみのある口調で言われた。
「え?」
ちょっとではなく、かなり驚いた。パチクリと瞬きを繰り返す視線の先で、彼はいっそう優し気な微笑みを浮かべた。
「そこまで打ち込めるお仕事をお持ちであることは、とても素敵なことだと思います。私もあなたを見習って、もっと仕事に励まなくては」
その表情には嘘が感じられず、素直に嬉しくなった。そして整った顔立ちで微笑まれては、ホワリと頬が熱くなってしまう。
「……ありがとうございます」
眩しい笑顔が直視できずに思わず目を伏せれば、彼はクスリと小さく笑い、
「ですが、あなたのように可愛らしい女性には、やはり笑顔がお似合いかと」
と、続けてきたのだ。
「はい?」
それほど親しくない男性に、しかもこんなにくたびれ切った状態で『可愛い』と言われたことに、嬉しさよりも驚きが勝った。
――社交辞令?いや営業トークか。最近の薬剤師さんは、口が上手いなぁ。
またしても微妙な笑みを浮かべていると、彼はふと思い出したように、
「買い物に来たお客様を引き留めてしまいまして、大変失礼しました。栄養ドリンクをお買い求めでしたね。こちらへどうぞ」
そう言って、彼は栄養ドリンクが陳列されている棚へと歩きだした。
なぜか、買い物に来るたびに案内される。いつからか当たり前のようになっている彼のこの行動は非常にありがたいけれど、申し訳ない気持ちも同時に湧いてくる。
――別に、栄養ドリンクくらい、自分で選べるんだけど。
店内には私の他にもお客さんがいるのだから、その人たちの相手をしてあげればいいのにと思う。たぶん、薬剤師さんのアドバイスを求めている人もいるはずだ。
そう考えたところで、風邪薬コーナーの前に商品をじっくり見比べている年配の男性がいた。ああいったお客さんにこそ、薬剤師さんが必要である。
「あ、あの……」
先導してくれている背中に、オズオズと声をかけた。
すると、彼が「なんでしょうか?」と、笑顔を振りまきながら、こちらに顔を向ける。
――なんなの、その笑顔。営業スマイルにしては、ものすごく自然な感じよね?
まぁ、それについて考えるのは置いといて。
「あちらのお客さん、風邪薬のことで迷っているみたいですよ」
失礼にならない程度に人差し指で示し、男性客の存在を教えてあげた。
「ああ、これは気が付きませんでした。ありがとうございます」
ニコリとレンズの奥の目を細め、彼がお礼を述べてくる。
「どうぞ、私のことは気にせずに、あちらあの方へ」
これで心置きなく、一人で栄養ドリンクを選べるぞ。……と、思ったのだが。
「先輩、徳永先輩。お客様に説明をお願いします」
少し奥まったところで湿布薬を陳列していた薬剤師の男性に声をかけた。
「どうした?」
彼に呼ばれた男性は手を止め、こちらにやってくる。
「風邪薬コーナーにお客様がいらっしゃいますので、一応、説明をしてあげた方がいいかと思いまして」
そう言われ、彼よりも幾分年上と思われる薬剤師さんが棚に目を遣った。
「ん、了解」
ニッと笑ったその人は「よろしければ、ご説明しましょうか?」と声をかけながら、風邪薬を選んでいるお客に近づいてゆく。
そして彼はと言えば、「これであのお客様も大丈夫でしょう。さ、こちらへ」と、再び笑顔で促してくる
「は、はぁ……」
自分が予想していた展開と異なり、私は気の抜けた声を出してしまった。
徳永と呼ばれた男性は品出しの最中だったのだから、彼があのお客様にアドバイスする役を買って出れば済んだ話ではないだろうか。
――えー。私ってば、目を離せないほどひどく疲れてるってこと?
会社を出る前にメイクは直してきたものの、それでもなお、疲れが滲み出ているということか。
――やっぱり、残業続きだったせいよね。これからは、もう少し規則正しい生活を心がけないと。体が資本だもん。
ひっそり決意を固めているうちに、私たちは栄養ドリンクのコーナーの前へ。
「いつもこちらの商品を飲まれているようですが、本日はこの新商品を試されてみてはいかがでしょか。即効性はありませんが、主成分が漢方薬ですので、お勧めですよ」
少し低めの柔らかい声で説明されると、つい、『うん』と言ってしまいそうになる。しかし、今日のところは、彼が勧めてくれた商品に手を伸ばすことが出来ない。
「実はですね。体の方が結構参っていまして、出来れば即効性がある方が助かるんですけど……」
正直に話したところ。
「そんなにまで仕事に向き合っていらっしゃるとは、あなたは頑張り屋さんなんですね」
やたら優しい顔をされた。
――三十前の女を捕まえて、『頑張り屋さん』て。子供じゃないなんだけど。
そう思いつつも、日頃の自分が評価されたようで、ちょっと嬉しかったりする。
はにかみながら、彼が手にしている商品ではなく、いつも買っているドリンクよりもワンランク高い商品に右手を伸ばそうとしたところ。
なぜか、その手をやんわりと掴まれた。
「え?」
突然のことに、忙しなく瞬きを繰り返す。
――どうして、私は、この人に、手を、握られて、いるのでしょうか?
あまりに驚きすぎて握られた手を振りほどくことはおろか、声を上げることもできなかった。私に出来たことといえば、ただひたすら目を大きくして彼を凝視することだけ。
時間にして短かったのか、長かったのか。それすら分からないほど、この状況に混乱している。混乱しすぎて、逆にパニックに陥ることができないくらい。
「愛らしい目がさらに大きくなって……。まるで、子猫のようです」
軽く首を傾けて静かに笑う彼が、なにやら楽しそうに言ってくる。
私はもしかして幻覚を見て、幻聴を聞いているのだろうか。こんな美形に手を握られて、笑顔を向けられるだなんて。
しかし私の手を掴んでいる彼の手からは、確かな温もりが伝わってくる。幻ではないようだ。
――へえ。背が高いだけあって、手が大きいなぁ。
彼が穏やかなものだから、つられてぼんやりそんなことを考えていたけれど、ハッと我に返る。
心まで疲弊しているのか、こんなにかっこいい男性に手を握られているというのに、瞬時には心臓がトクリとも弾まなかった。
だいぶ遅れてから、ようやく心臓がバクバクと激しく脈を打ち始める。
「あ、あ、あ、あのっ、手、手を……!」
間抜けなタイミングで今更ながらアワアワすれば、初めて気が付いたとばかりに、「これは、これは」と、苦笑まじりの彼が手を引いた。
解放された右手を胸に引き寄せ、庇うように左手で覆う。
「ど、ど、ど、どうして……」
完全に挙動不審だ。遅れてやってきた衝撃は、いい歳の女をどもらせる威力があった。
職場にももちろん男性がいるが、彼らは異性というよりも『同士』という意味合いが強く、さほど意識をしたことがない。
それは私だけではなくて、職場全体がそんな空気感である。
さっきだって、先輩に髪を撫でられた(正確には掻き混ぜられた)けれど、あんなものは挨拶みたいなものだ。私が気にしていないように、先輩だって、私のことを女として見ていないのだろう。
おかげで、すっかり異性を意識することがなくなり、こんな風にちょっと手を握られただけで、すっかり慌てふためく始末。これでは『人生捨てている』と先輩に言われるのも、ますます納得である。
耳にうるさく響く自分の心臓の音を聞きながら、私は彼の言葉を待った。
すると彼は私の手に触れていた自身の左手で、サラサラの髪をかき上げる。
「その小さな手で一生懸命に仕事に励んでいるのかと思ったら、自然と手が伸びてしまいまして」
――自然と?意味が分からない。
これって、セクハラっていうのかしら?私的には、美形に手を握られたという役得かもしれないが。
「そう、ですか……」
どうにも腑に落ちない状態だが、ここであまり騒ぎ立てるのも馬鹿馬鹿しいし、そこまで初心なお嬢さんではない。
今でこそ彼氏はいないが、大学生の頃にはちゃんと相手がいたのだ。お互いにそれなりの歳だったから、それなりの関係もあった。
だから、手を握られたくらい平気だ。どうってことはないのだ。
私は彼から顔を背け、自分に言い聞かせつつ、こっそり深呼吸を繰り返す。
おかげで、レンズの奥の瞳がとびきり優しい色を浮かべていた顔をしていたことには、まったく気が付かなかったのだった。 -
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